HISTORICAL PERSON · 紀元前208年没

李斯

楚の上蔡の出身で荀子に学び、秦王政に仕えて天下統一に貢献し丞相となった。郡県制の推進や小篆による文字統一、度量衡の統一、焚書を行ったが、始皇帝の死後に趙高との権力争いに敗れ処刑された。

生涯
紀元前208年没
死亡地
中華人民共和国(陝西省 / 秦咸陽城遺跡)
出生地
中華人民共和国(上蔡県)
出典
世界地図
中華人民共和国(陝西省)

伝記

李斯は、中国戦国時代末期の秦から秦朝にかけて活躍した政治家である。楚の上蔡、現在の河南省駐馬店市上蔡県の出身で、若いころは地元で文書を扱う小役人を務めていた。あるとき役所の便所で人や犬におびえながら汚物を食らうネズミを見、続いて倉の中で粟を存分に食べて安穏と暮らすネズミを見て、人の優劣もネズミと同じく置かれた環境で決まるものだと嘆いたという逸話が伝わる。その後、荀子に師事して帝王の術を学んだが、楚王は仕えるに値せず、他の六国も衰えて功を立てる見込みがないと判断し、秦へ向かう決意を固めた。師に別れを告げる際には、いまは遊説の士が大事を成せる時であり、卑賤に甘んじて何もしないのは禽獣にひとしいと述べたとされる。

紀元前247年に秦へ着いた李斯は、相国の呂不韋の食客となり、その才を認められて郎に任じられた。やがて秦王政に、天下統一の好機を逃してはならないと説いて長史となり、諸国の有力者を賄賂で懐柔し、応じない者は殺害して君臣の仲を裂くという策を進めた。功により客卿の地位を得たが、紀元前237年、水工の鄭国が韓の工作員と発覚すると、外国出身の客卿をすべて追放せよとの声が高まり、李斯も対象となった。李斯が撤回を求めて上書すると、その文章は理路整然とした名文で後の『文選』にも収められ、秦王政は逐客令を取り消した。のちに廷尉、すなわち最高位の司法官にまで昇っている。

かつての同門である韓非の著書を読んで感嘆した秦王政が韓非を招くと、李斯はその登用が自分の地位を脅かすことを恐れ、姚賈と共に韓非を讒訴した。韓非は獄に繋がれ、李斯が送った毒薬で自殺し、秦王政は後悔して赦免を命じたものの間に合わなかった。紀元前221年に秦が中国を統一すると、李斯は王に代わる称号の審議を命じられ、泰皇の号のほか、命を制、令を詔、天子の自称を朕とすることを上奏した。秦王政は泰皇を皇帝と改めた以外はこれを採り、始皇帝と号した。封建制を唱える意見に対しては、諸侯が争って止められなくなった周の例を挙げて強く反対し、郡県制を説いて採用され、国土は36郡に分けられた。また文字の統一を建議し、大篆を簡略にした小篆を作り、学習書として『蒼頡篇』を著したとされる。度量衡や車軌の統一、道路網の整備にも関与し、始皇帝の巡遊で建てられた刻石の碑文も李斯の撰と伝わる。紀元前213年には、博士の淳于越の封建復活論を退け、諸子百家の書などを廃棄させる挟書律を建議し、始皇帝がこれを裁可して焚書が行われた。

長男の李由は三川郡の郡守となり、息子たちは公主を、娘たちは公子を迎えて、李斯の家は栄華の極みにあった。だが李斯自身は、荀子の言葉を思い出し、物事は極まれば必ず衰えると嘆息したという。紀元前210年に始皇帝が巡幸の途中で亡くなると、李斯は混乱を避けるため崩御を伏せた。遺詔を握る趙高は胡亥の擁立を企て、李斯を説得した。李斯は初め亡国の言葉だと拒んだが、蒙恬と比べた能力の問いや、扶蘇が即位すれば丞相の座を失うという警告、禍いが子孫に及ぶという言葉に追い詰められ、ついに加担した。遺詔は偽造されて扶蘇と蒙恬は自害に追い込まれ、胡亥が二世皇帝となった。その後、趙高の主導で苛酷な刑罰が広がり、紀元前209年には陳勝と呉広の乱が起きた。李斯はたびたび胡亥を諫めようとしたが、李由が反乱軍の西進を止められなかったことを責められ、立場を危うくして保身のために『行督責書』を上奏した。しかし最後は趙高との権力争いに敗れ、紀元前208年に処刑された。

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