伝記
マカニダスは、紀元前3世紀末のスパルタの僭主である。紀元前207年に没し、在位は紀元前210年から紀元前207年とされる。先王リュクルゴスの死後、その子ペロプスの後見人となった。ただし、ペロプスの護衛役だったとする記述もあり、この時期のスパルタの歴史は不明な点が多い。
出自や僭主の座に就いた経緯は分かっていない。タラス人の傭兵団の一員で、おそらくは指揮官格の人物としてスパルタ政府に雇われていたとされる。初めはリュクルゴスの子ペロプスと並び立ち、やがてリュクルゴスの勢力を押しのけたか、追放したのだろうと考えられている。ローマの歴史家リウィウスは彼を「ラケダイモン人の僭主」と呼んだ。先王と同じく、王位に就く世襲その他の根拠はなかったが、先王とは違って監督官や法を尊重せず、配下の剣の力で支配したという。
アルゴスの国境へ軍を進めて巡視したことや、アイトリア同盟の動きは、アカイア同盟に恐怖を与えた。アカイア同盟は抵抗できず、マケドニア王ピリッポス5世に援助を求め、これがギリシアへの介入を招いた。紀元前209年にはテゲアを攻めて破り、紀元前208年にはオリンピアの聖なる休戦のさなかにアルゴスとエリスを攻めたとされる。紀元前207年、アイトリア戦争が終わりに近づき、和平の交渉が進んでエリスの人々が次の祭典の準備をしていたころ、エリスの聖域への侵入を企てたが、マケドニア王が間に合ってペロポネソスに到着したため、スパルタへ退いた。
同じ紀元前207年の夏、マカニダスはマンティネイアに侵攻し、アカイア同盟の騎兵隊長フィロポイメンの軍とマンティネイアの戦いで対陣した。フィロポイメンは8か月の準備を重ねていたという。戦いの初め、マカニダス配下のタラス人傭兵はアカイア側のタラス人傭兵を打ち破って追撃したが、そのためにスパルタ軍の隊列は崩れた。フィロポイメンはその隙を突いて側面から攻め、スパルタ軍に多数の死者が出たとされ、四千人が死んだともいわれる。傭兵を率いて追撃から戻ったマカニダスは、深い溝の手前でフィロポイメンと向き合い、馬で溝を跳び越えようとしたところを、槍で胸を突かれて討ち取られた。アカイア同盟は、フィロポイメンがマカニダスに致命傷を与える姿の青銅像をデルフォイに建てた。
マカニダスの死後、その地位にはナビスが就いた。ナビスは成長したペロプスに取って代わられることを恐れ、後にペロプスを処刑した。