伝記
趙高は、中国の秦に仕えた政治家で、紀元前207年に没した。弟に趙成がいる。始皇帝の死後に暴政を行い、秦の国力を著しく弱めて滅亡を早めた奸臣として知られる。以下は主に『史記』に沿った経歴であり、他の史料には食い違う点もある。
趙の遠縁の公族として生まれたが、幼いころに母が罪を犯し、趙高は宮刑に処されて宦官として秦に仕えたという説が知られる。ただしこの説には疑問が出されている。『史記』李斯列伝には、紀元前210年の時点で趙高自身が「文筆の能力で秦の宮廷に入り、20余年間管事してきた」と述べた記述があり、遅くとも紀元前230年以前には仕えていたと推測される。勤勉で法律に精通していたため始皇帝に抜擢され、皇帝の馬車を管理する中車府令となった。始皇帝の末子の胡亥にひそかに書法や法律を教えたこともあり、胡亥に寵愛された。あるとき大罪を犯して、蒙毅が法に従い死刑と裁いたが、始皇帝は勤勉さを理由に赦免して元の官爵に戻した。
始皇帝の五度目の巡幸にも随行したが、始皇帝が道中で亡くなると、趙高は丞相の李斯を弁舌と巧みな心理操作で抱き込み、遺言を書き換えた。長子の扶蘇を自決に追い込み、末子の胡亥を二世皇帝に即位させるクーデターである。遺言には扶蘇が葬儀を取り仕切るよう記されており、実質上の後継指名だったため胡亥はためらったが、そのとき趙高が放った言葉が「断じて行えば鬼神もこれを避く」であった。趙高は郎中令に就くと、胡亥を宮中にこもらせて贅沢をさせ、自らは政務を取り仕切って実権を握った。李斯でさえ趙高の仲介なしには胡亥に奏上できなかったほどである。阿房宮の大増築や過重な労役を進め、法を都合よく改めて、群臣や公子に罪を作っては連座で一族ごと処刑し、財産はすべて趙高が没収した。蒙恬・蒙毅の兄弟、公子12人、公主10人らが冤罪で処刑され、人材は枯渇し、人民の恨みを買った。
陳勝・呉広の乱をきっかけに、不満は全土の反乱となって現れた。対策と改革が必要だと考える李斯と、現状の保持にこだわる趙高は対立を深め、趙高は胡亥に讒言して李斯を腰斬に処させ、自ら丞相(中丞相)となった。名将章邯が項羽に敗れると、趙高は増援を送らず責任をなすりつけようとしたため、章邯は20万の兵とともに楚に降伏した。劉邦の軍が咸陽の近くに迫ると、趙高は事態を隠しきれないと考え、胡亥を殺す計画を練った。その前に群臣が従うかを試そうと、宮中に鹿を連れてきて「珍しい馬です」と言った。胡亥は鹿ではないかと言ったが、趙高が廷臣に問うと、権勢を恐れる者は馬と答え、屈しない者は鹿と答えた。後日、趙高は鹿と答えた官吏を捕らえて処刑した。「鹿を指して馬となす」の故事成語の由来である。
二世3年(紀元前207年)8月、趙高は謀反を起こして胡亥を弑逆し(望夷宮の変)、玉璽を奪って帝位につこうとしたが、側近も百官も従わなかった。劉邦軍との内通も図ったが、相手にされなかった。同年9月、人望のある子嬰を秦王に立てて責任を胡亥に押しつけようとしたものの、趙高を憎む子嬰と韓談らに屋敷へ呼び出されて殺され、一族も皆殺しにされた。まもなく子嬰は劉邦に降伏し、秦は滅亡した。なお『趙正書』には、章邯に殺されたとする別の記述がある。後世、趙高は悪臣の象徴とされ、唐の太宗は董卓と並べて非難し、日本の『平家物語』でも、天下を私して滅んだ例として挙げられている。