伝記
エリザベス・ブラックウェルは、1821年2月3日にイギリスのブリストルで、砂糖精製業者サミュエルと妻ハンナの間に生まれた。9人兄弟の3番目で、アメリカ合衆国で医学校を卒業した最初の女性であり、イギリスで公的に医師登録された最初の女性でもある。一家は熱心なクエーカー教徒とされ、会衆派とする資料もある。父サミュエルは男女の差別を嫌い、奴隷制に反対した。娘たちにも才能を限りなく伸ばす機会を与えるべきだと考えていた。当時としては珍しいことで、エリザベスには家庭教師や個人教師がついた。その結果、家族以外とはあまり交わらずに育った。
11歳のとき、砂糖工場が火事で焼け、1832年に一家はアメリカへ移住した。父は奴隷解放の運動にも関わり、夕食の席では、女性の権利、奴隷制、児童労働が話題になった。砂糖の収穫に奴隷を使わないオハイオ州シンシナティに精製所を開いたが、やがて父は亡くなり、家族はほとんど金を失った。エリザベスは姉妹とともに学校を開き、ケンタッキーでは教師をして資金をかせいだ。医学に関心を持ったのは、病気になった友人が、女性の医師に診てもらえたら苦しまずにすんだろうと言ったのがきっかけだった。医師の家に住み、医学書を読んで勉強し、いくつもの医学校に願書を出したが、ニューヨークのジュネーヴ医科大学を除いて断られた。この大学では、男子学生が冗談半分に入学に賛成の票を投じた。こうして1847年に、アメリカで医学校に通った最初の女性となり、1849年1月に学位を得て卒業した。
アメリカの病院での採用を拒まれたため、パリに渡って産院で修行したが、医師としてでなく、助産婦の訓練しか受けられなかった。この間に右目の病気で義眼となり、外科医の道は閉ざされた。1853年には、イギリスで女性のためのベッドフォード・カレッジに1年を過ごした。1857年に、妹エミリー(アメリカで2人目の女性医学位取得者)とマリー・ザクシェフスカとともに、マンハッタンに貧しい女性と子供のための診療所を開いた。南北戦争中は北軍のために多くの看護婦を養成し、戦争のあとは、女性のための医学校の設立に努めた。1858年にイギリスで法律が制定され、外国で学位を取得した医師の登録が可能となったため、1859年1月に最初の女性医師として登録された。
1869年にイギリスで、ナイチンゲールとともに女子医学校を設立し、ロンドン女子医学カレッジで教えて、産科の教授となったが、1年後に引退した。引退後も教育の重要性について著述し、女性の権利運動に関わった。1873年にはアメリカ合衆国で最初の看護婦養成学校の設立に貢献した。病気や衛生に関する多くの著書を書き、女子教育の手引書はスペイン語にも翻訳されている。1856年に孤児のキティ・バリーを養子にし、この子が後半生の伴侶となった。兄弟のうち、ヘンリーは女性参政権運動の活動家ルーシー・ストーンと、サミュエルはアントワネット・ブラウンと結婚した。1907年に階段を降りようとして転倒し、この怪我から完全には回復しなかった。1910年5月に、イースト・サセックス州ヘイスティングズの自宅で心筋梗塞のため死去した。
同じ年に亡くなった人物
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同じ地域に関係する人物
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