伝記
セテペンラーは、古代エジプト第18王朝の王女で、王アクエンアテンと大王妃ネフェルティティの六番目で最後の娘である。名は「ラーに選ばれた者」を意味する。生年は分からず、没年も紀元前1400年ごろとされるにとどまる。
生まれたのは父の治世第9年から11年ごろ、都アケトアテンでのことと考えられる。誕生を治世11年ごろとみる研究者もおり、10年から11年とする見方もある。上には五人の姉がいて、メリトアテン、メケトアテン、アンクエスエンパアテン、ネフェルネフェルウアテン・タシェリト、ネフェルネフェルウラーといった。このうち姉のネフェルネフェルウラーと二人だけが、名にアテンではなくラーを含む。これは治世9年ごろにあったアテンの教義上の名の改革と関わるとされるが、この王女の生涯について分かることはごく少なく、若くして亡くなったと考えられる。
最も早い姿は、アマルナの王の家の壁画に残る。治世9年ごろの作とされ、一家全員が描かれた中で、赤ん坊のセテペンラーは母ネフェルティティの膝にいた。壁画は傷みが激しく、王女のものとしては小さな手が残るだけである。次に六人の王女がそろって現れるのは、治世12年の冬の第2月8日、各国の貢ぎ物を受ける儀式の場面で、役人メリラー2世とフヤの墓に描かれた。メリラー2世の墓の浮彫では、アクエンアテンとネフェルティティが亭に座り、娘たちが後ろに立っている。セテペンラーは下段の最後に立ち、姉のネフェルネフェルウラーが抱くガゼルに、手を伸ばしてなでようとしている。
死は治世13年か14年ごろ、六歳の誕生日を迎える前だったとみられる。王墓の部屋の壁には五人の王女の名が刻まれ、そのうちネフェルネフェルウラーの名は漆喰で塗りつぶされ、描かれた王女は四人だけである。このことから、セテペンラーはネフェルネフェルウラーより先に亡くなったと推定される。次女メケトアテンの死を悼む場面にも姿がないため、メケトアテンより前、王墓が埋葬できるまで整う前に亡くなったのかもしれない。最初に亡くなった王女だった可能性があり、遺体はのちに王墓の部屋に移されたとも考えられている。
この時期、王家は相次ぐ死に見舞われ、セテペンラーとネフェルネフェルウラーはその最初の犠牲者ともされる。死は治世13年から後継者の時代にも及んだとみられ、背景には、当時近東を襲った疫病があった可能性が指摘されている。
同じ年に亡くなった人物
- メリトアテン (紀元前 1400年(推定))
- アメプホテプ、ハプの息子 (紀元前1400)
- タドゥキパ (紀元前1400)
- Hattusili II (紀元前1400)
- イウヤ (紀元前1400)
同じ地域に関係する人物
- ネフェルネフェルウラー (紀元前1400)
- メケトアテン (紀元前1337)
- アンティノウス (130年没)