伝記
ガイセリックは、ヴァンダル族とアラン族の王(在位428年〜477年)である。389年ごろに生まれ、477年1月25日にカルタゴで没したとされる。北アフリカにヴァンダル王国を築き、五世紀の西ローマ帝国を大いに悩ませた人物で、その治世のおよそ50年のあいだに、ヴァンダル族は比較的小さなゲルマン系の一部族から地中海の主要勢力へと成長した。
前王ゴディギゼルの非嫡出子として、現在のハンガリーのバラトン湖の近くで生まれたと考えられている。容貌はゲルマン人らしい長身で筋骨たくましい姿ではなく、背が低く、若いころの落馬のせいで足を引きずっていたと言われる。戦士として生きねばならない当時の王としては、王らしからぬ王だったようだが、やがて頭角を現し、地中海世界で最高の軍略家の一人になった。400年から401年ごろ、おそらくフン族の侵入に押されて、ヴァンダル族はスエビ族やアラン族とともに西へ移動を始めた。ヴァンダル族はアリウス派のキリスト教を受け入れていたため、ローマ帝国のカトリック教会からは異端とみなされていた。ライン川で行く手をフランク族に阻まれ、ゴディギゼルを含む2万人が死んだが、アラン族の助けで勝ち、406年12月31日にガリアへ侵入した。409年10月にはピレネー山脈を越えてスペインに入り、アスディング系のヴァンダル族はガリシアの一部に、シリング系はアンダルシアに割り当てられた。ゴディギゼルの死後に王となったグンデリクが世を去ると、428年にガイセリックが王に選ばれた。西ゴート族やスエビ族との争いでシリング系とアラン族は壊滅し、残った勢力はガイセリックらのアスディング系に統合されていった。
同じ428年、スエビ族の軍勢に背後から攻められたが、メリダの近くでこれを破った。まもなく彼は、ライバルとの戦いを避けてヒスパニアを去ると決め、ジブラルタル海峡を渡ってアフリカへ向かった。ヴァンダルとアランの全体で兵員は推定2万人、部族の総数は最大8万人ともいわれる。当時のローマの北アフリカでは、将軍アエティウスとボニファティウスが対立し、ボニファティウスの反乱があったことが西ローマの弱みになっていた。ガイセリックはやがてボニファティウスと決裂し、430年にはその軍を破って占領地を広げ、アウグスティヌスが司教を務めるヒッポの周辺を押さえた。海軍力を備えたヴァンダル王国は、シチリア、サルディニア、コルシカの各島を服従させ、442年にはローマ帝国が北アフリカの征服を公式に認め、王国が承認された。
その後およそ30年、ヴァンダルは奪った船団で地中海各地を略奪した。最も知られた業績は455年6月のローマ占領で、西ローマ皇帝ウァレンティニアヌス3世が殺害され、その妃が救援を求めたことを口実に、ガイセリックは442年の平和条約を破ってイタリアに上陸したとされる。教皇レオ1世が住民を殺さず建物を壊さぬよう求め、ガイセリックは合意して城門は開かれたが、実際には略奪が行われた。そのためヴァンダルの名は今も「略奪者」「文化の破壊者」の意味で使われている。ヴァンダル王国はその後もローマとの大きな戦争に勝ち、460年には西ローマ皇帝マヨリアヌスの討伐軍を退け、468年にはバシリスクスの東ローマ艦隊を壊滅させた。474年には東ローマ帝国との和平に応じている。88歳の高齢で没し、王位は息子のフネリックが継いだ。ガイセリックの死後、王国は衰退と崩壊へ向かった。
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