HISTORICAL PERSON · 1141年没

ベーラ2世 (ハンガリー王)

ハンガリー王・クロアチア王。幼少時に両目を潰されたことから盲目王とも呼ばれた。従弟イシュトヴァーン2世の後継者に選ばれて1131年に即位し、治世は王位を主張するボリス・コンラドとの戦いに悩まされた。

生涯
1141年没
死亡地
ハンガリー(セーケシュフェヘールヴァール)
出生地
ハンガリー王国(Tolna County)
出典
世界地図
ハンガリー(セーケシュフェヘールヴァール)

伝記

ベーラ2世は、1131年から1141年までハンガリー王とクロアチア王をつとめた。幼いころに両目を潰されたことから、盲目王と呼ばれる。1110年ごろ、ハンガリー王カールマーンの弟アールモシュ公と、キエフ大公スヴャトポルク2世の娘プレドスラヴァとの一人息子として生まれた。アールモシュは何度も兄カールマーンの王位を狙って陰謀をめぐらし、公位を奪われたこともあった。カールマーンは、自分の息子に平穏に王位を継がせようとして、1115年ごろ、アールモシュと幼いベーラの両目を潰させた。障害者にしてしまえば王位継承の争いから遠ざかると考えたためで、年長者が継ぐ決まりが適用されることを恐れたともいわれる。

父子は、アールモシュが建てたジョモシュの修道院で暮らしたと考えられ、ベーラは、カールマーンの子イシュトヴァーン2世の治世のもとで修道院に育った。1126年ごろ、アールモシュはイシュトヴァーン2世に対する陰謀に加わったが発覚し、ベーラを残して東ローマ帝国へ逃れた。ベーラは父に従わなかった。ベーラは、父の同盟者らによって、ペーチヴァラードの修道院に秘密裡に移され、院長にかくまわれた。アールモシュは亡命先で1127年か1128年に死んだ。そののち、ベーラの支持者らがイシュトヴァーン2世に、盲目にされた従弟が生きていることを告げた。王は、ベーラが子を残せないと考えて喜び、宮廷に迎えた。そしてセルビア公ウロシュ1世の娘イェレナとの結婚を整え、1129年ごろ、夫妻にトルナ近郊の所領を与えた。

1131年のはじめにイシュトヴァーン2世が子のないまま死ぬと、約2か月後の4月28日、ベーラはセーケシュフェヘールヴァールで王として戴冠した。イシュトヴァーンは甥のサウルを後継に望んでいたが、サウルが先立ったため、ベーラを指名したといわれる。盲目のベーラは政務を人の助けなしにはとれず、妃イェレナと、その兄ベロシュを頼った。王の公的な文書にも私的な文書にも、妃が決定で中心の役割を担ったことが強調されている。即位の少しあと、アラドの集会で、イェレナは、盲目の王を敬わなかったためとも、かつてカールマーンに王の目を潰すよう進言したためともいわれて、集まった貴族を虐殺するよう命じた。ベロシュは辺境伯に取り立てられ、軍の総司令官となった。

治世のあいだ、カールマーンが認知を拒んだ子とされるボリスとの戦いが絶えなかった。ボリスはキエフ大公国の軍事支援も受けた。ベーラが帝国と良好な関係にあり、これが帝国と戦っていたポーランドの利害を脅かしたため、ポーランドはボリスを支えた。1132年、ポーランドとキエフの軍とともにボリスがハンガリーへ攻め入った。ベーラはオーストリア辺境伯レオポルト3世と同盟し、貴族を集めて会合を開き、ボリスを私生児であると宣誓しない者を殺させた。ボリスはハンガリー軍に敗れたが、その後も何度も侵入を繰り返した。ベーラの姉アデライデはボヘミア公ソビェスラフ1世の妃で、ソビェスラフが皇帝ロタール3世の選出に尽力したことから、皇帝との関係は深かった。ロタールがポーランドと和平を結んで従属させたため、ポーランドはボリスを支援できなくなった。1136年には、ヴェネツィアに奪われたダルマチアを取り戻そうと、ボスニアへ遠征軍を送った。功のあった息子ラースローに、ボスニア公の称号と全土を与えた。1141年2月13日に死去し、原因は過度の飲酒という。ゲーザ2世、ラースロー2世、イシュトヴァーン4世の3人の息子のうち、あとの2人は対立王となった。

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