HISTORICAL PERSON · 1160年没

ムクタフィー (12世紀)

アッバース朝カリフ。ギリシア系・アルメニア系マムルークを購入して再軍備しセルジューク朝のシフナを追放、宰相イブン・フバイラの力でバグダード包囲を退けた。

生涯
1160年没
死亡地
イラク共和国(バグダード県 / バグダード)
出生地
イラク共和国(バグダード)
出典
世界地図
イラク共和国(バグダード県)

伝記

アル・ムクタフィーは、1096年4月9日に生まれ、1160年3月12日に没した、アッバース朝の第31代カリフである。先代のカリフ、アル・ムスタズヒルの子で、母はシリア出身の女奴隷アシンであった。異母兄のアル・ムスタルシドもカリフで、その子で先代のカリフとなったアル・ラーシドの叔父にあたる。

1136年、セルジューク朝のスルタン、マスウードによって、甥のラーシドが廃位され、ムクタフィーが擁立された。9月17日に即位を宣言した。その際には、兄ムスタルシドの宰相の一人だったアル・ザイナビーの推挙があったというが、ムクタフィーは即位後、彼との関係を悪くして追放した。即位したとき、カリフの宮殿の財産や家財道具は、一切がマスウードに差し押さえられていた。マスウードが、カリフと部下に必要なものを申請すれば、それに見合う私領地を決めようと申し出ると、ムクタフィーは「われわれには、宮殿に一族の飲む水をチグリス河から運ぶ80頭のラバがいるのだが、80頭のラバが毎日飲み水を飲む者たちがどれほどのものを必要とするかは、そちが考えよ」と答えたという。マスウードは「たいした男をカリフ職に据えてしまったものよ」と述べたと伝わる。

ムクタフィーは、トルコ系を避けて、ギリシア系とアルメニア系のマムルークを購入し、再軍備を図った。アッバース朝の直接支配する領地を広げ、アイヤールの反乱も鎮圧した。ただ、兄のムスタルシドが自ら軍を率いることが多かったのに対し、ムクタフィーは、宰相のイブン・フバイラをはじめとする武将に遠征を任せ、自ら出陣することは少なかった。1147年には、1124年生まれの子のムスタンジドを後継者に指名し、金曜礼拝の説教で、その名が唱えられるようになった。1148年、周辺のアミールの連合軍がバグダードを包囲したが、イブン・フバイラの活躍で退けた。翌1149年、ムクタフィーはイブン・フバイラを宰相に任用した。同じ1149年のイナブの戦いで、アンティオキア公レーモンが戦死すると、その首はヌールッディーンからバグダードのムクタフィーのもとへ送られた。

1152年にマスウードが没し、セルジューク朝でスルタンの座をめぐる争いが起こると、ムクタフィーは積極的に動いた。バグダードに置かれていたセルジューク朝の代官を追い出し、スルタンの宮殿や領地を没収した。ワースィトとヒッラも奪った。マスウードの弟スライマーン・シャーを、甥のムハンマド2世に対抗して支持し、スライマーン・シャーから、イラクに干渉しないとの約束を取りつけた。1157年にはセルジューク朝の名を説教で唱えるのをやめ、独立の傾向を強めた。ムハンマド2世は、ザンギー朝のモースル政権などの支援を受けてバグダードを包囲したが、ムクタフィーは耐えぬいた。この成功は、イブン・フバイラの力が大きい。包囲は、ムハンマド2世がマリク・シャー3世の反乱に直面したため放棄された。晩年のムクタフィーは、ティクリートを二度攻めて失敗したが、リフの町は奪った。1160年、内臓の病で亡くなった。

歴史家イブン・アル・アシールは、ムクタフィーを、物腰が柔らかく、紳士的で正義感に溢れ、良識と知識を備えた良き統治者と評した。周辺のスルタンの干渉を受けずにイラクの全権を握ったのは、ブワイフ朝の統治が始まって以来初めてであり、マムルークがカリフを傀儡にして以来、初めて権威を十分に発揮したカリフでもある。諜報員に予算をつぎ込んだので、どんなことも彼の目から逃れられなかったという。

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