伝記
チャールズ・テイズ・ラッセルは、1852年2月16日にアメリカ合衆国ペンシルベニア州アレゲーニー(現在のピッツバーグの一部)で生まれ、1916年10月31日に没した人物で、のちにエホバの証人となる聖書研究者の運動を起こした。父ジョセフ・L・ラッセルと母アン・エリザの次男で、両親はともにスコットランド系・アイルランド系の長老派教会の信者であった。母は彼が9歳のときに亡くなった。実家は男性用服飾店で、11歳のときに父と共同で店を経営し、15歳のときには各地に店を持つまでになった。夜遅くまで聖書を熱心に読む子供だったと伝えられるが、読み進めるうちに、「地獄における永遠の責め苦」や「運命予定説」といった伝統的な教理に疑問を抱いた。さまざまな教派の信条や東洋の宗教も調べたが、納得できる答えは得られず、17歳のころまでには事業に専念しようと考えていたという。
1869年ごろ、リバイバルの時期に、再臨派の集会に出て、牧師ジョナス・ウェンデルの説教を聴き、聖書が霊感によって書かれたことを改めて確信した。のちに自らの教義の中核になるものをつかみ、「地獄は墓にすぎない」という教えを借りて、永遠の刑罰に反対した。1870年、6名ほどの友人と「聖書研究会」をつくり、毎週集会を開いた。5年間にわたり、霊魂不滅の教理の誤りや、キリストの再臨は目に見えない形で起こること、キリストは地球を滅ぼすためではなく祝福するために来ることなどを理解したという。1876年1月、再臨派の雑誌『朝の先触れ』を入手し、編集者バーバーの、キリストはすでに目に見えない形で再臨しているという見解に関心をもった。聖書研究会はバーバーのグループと合同し、ラッセルは資金を寄付して共同編集者となった。1877年には事業の株を売って全時間の伝道に就き、旅行しながら多くの講演を行った。同年、バーバーと共著で『三つの世界およびこの世界の収穫』を出版し、キリストの見えない再臨は1874年の秋から始まったとし、「諸国民の定められた時」は1914年に終わると指摘した。しかし、キリストの贖いをめぐる見解の食い違いから、二人は決別した。
1879年3月13日にマリア・フランシス・アクリーと結婚した。同年7月、バーバーの手を借りず、『シオンのものみの塔およびキリストの臨在の告知者』(現在の『ものみの塔』)を創刊した。創刊号は6,000部で、寄稿者は5名であった。1879年と1880年には、7つの州に約30の会衆を設けた。1881年2月16日にピッツバーグで「シオンのものみの塔冊子協会」が発足し、1884年12月15日に宗教法人となって、ラッセルは初代会長を務めた。1886年からは全七巻の『千年期黎明』(のちの『聖書研究』)の執筆に着手したが、最後の第七巻を書く前に亡くなった。1889年にはアレゲーニーに4階建てのレンガ造りの建物「バイブル・ハウス」を建て、1909年まで本部とした。
1891年には最初の大会がアレゲーニーで開かれ、同年に海外旅行に出て、ヨーロッパ、アジア、アフリカで伝道した。協会の文書は、ドイツ語やフランス語など多くの言語で出版された。1904年には、説教を新聞に載せるシンジケートが組織され、1908年にはニューヨーク州ブルックリンに建物を買い、本部の主要施設を移して、新聞に載るラッセルの説教は4,000以上の新聞社で掲載された。1911年には実情調査のため日本を訪れ、横浜や東京から長崎まで巡回した。生前はフリーメイソンの会員で、墓はピッツバーグのフリーメイソン本部に近い墓地にある。
同じ年に亡くなった人物
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同じ地域に関係する人物
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