伝記
シビーユ・ダンジューは、1112年から1116年ごろに生まれ、1165年にベタニアで没した、フランドル伯の妃である。アンジュー伯フルク5世と、妃でメーヌ女伯のエランブルジュ・デュ・メーヌの娘にあたる。父はのちにエルサレム王となった。父方の祖母ベルトラード・ド・モンフォールは、夫のもとを去ってフランス王フィリップ1世の妃となった人物である。兄弟には、イングランド王ヘンリー1世の娘マティルドの夫となるアンジュー伯ジョフロワ5世と、メーヌ伯エリー2世がいる。
1123年、のちにフランドル伯となるギヨーム・クリトンと結婚した。ギヨームはノルマンディー公ロベール2世の子で、父方では征服王ウィリアムと、フランドルのマティルドの孫にあたる。ギヨームを支持した父フルクが取り決めた結婚で、シビーユは持参金としてメーヌ伯領を夫にもたらした。しかしこの結婚は、ギヨームの叔父であるイングランド王ヘンリー1世の要求を受けた教皇ホノリウス2世によって、近親婚を理由に1124年に無効とされた。ヘンリー1世は、脅しや懇願と大量の金銀を使ったとされる。父のフルクは無効に反対し、教皇に破門されてアンジューの聖務が差し止められるまで、同意しなかった。夫婦に子はなかった。シビーユは、寡夫となっていた父に連れられてエルサレム王国へ向かった。父は聖地で、王位継承予定者のメリザンドと結婚し、1131年にエルサレム王となった。
シビーユは、聖地へ初めて巡礼に来ていたフランドル伯ティエリー・ダルザスと結婚した。ティエリーは、シビーユの前夫ギヨームと伯位を争った人物だった。結婚は1134年とも1139年ともされる。夫とともにフランドルへ帰り、夫が第2回十字軍で不在のあいだは、妊娠中でありながら伯領の摂政を務めた。この間にエノー伯ボードゥアン4世が攻めてきたが、シビーユは反撃を指揮してエノーを略奪した。報復としてボードゥアンはアルトワを荒らしたが、ランス大司教が介入して停戦が結ばれた。ところが1149年にティエリーが帰国すると、ボードゥアンに復讐した。
1157年、シビーユはティエリーの3回目の聖地巡礼に同行した。しかしエルサレムに着くと夫と別居し、帰国を拒んだ。彼女はベタニアの聖マリア・聖マルタ修道院の尼僧となった。その修道院では、メリザンド女王の妹のイオヴェタが院長を務めていた。イオヴェタとシビーユはメリザンド女王を支援し、教会にも影響を及ぼしたという。数多くの候補者のなかから、エルサレムのラテン総主教としてアマルリック・ド・ネールの選出を支持した。シビーユは1165年にベタニアで死去した。
ティエリー・ダルザスとのあいだには多くの子が生まれ、その中には、のちにブローニュ伯となったマチュー、フランドル伯となったフィリップ、フランドル女伯となったマルグリット、サヴォイア伯ウンベルト3世と結婚したジェルトリュード、フォントヴロー修道院長となったマティルド、カンブレー司教となったピエールがいる。
同じ年に亡くなった人物
- マルカム4世 (スコットランド王) (1165年没)
- イシュトヴァーン4世 (ハンガリー王) (1165年没)
- 二条天皇 (1165年没)
- ジャウフレ・リュデル (1165年(推定))
- Abu'l-Barakat al-Baghdadi (1165年没)
同じ地域に関係する人物
- シモン (ハスモン朝) (紀元前135年没)
- 聖サバス (532年没)
- ユーグ (シャンパーニュ伯) (1126年没)
- ヘロデ大王 (紀元前4年没)
- アブー・ウバイダ (639年没)