伝記
恵帝は、前漢の第2代皇帝である。諱は盈といい、紀元前210年に生まれ、紀元前188年に23歳で世を去った。父は漢の初代皇帝となる劉邦、母は呂雉であり、劉邦が任侠の身であった頃に生まれた嫡出子である。劉邦の長子は後に斉王となる劉肥だが、その母は側室か、劉邦が漢王となる前に連れ添った女性であったため、劉盈のほうが正統な後継者と見なされた。幼い頃、母が田の草取りをしていたところへ通りかかった老人が、劉盈と母と姉の魯元公主の人相を見て、いずれ高貴な人になると劉邦に告げたという話が伝わる。
劉邦が挙兵すると、劉盈は母とともに沛県で留守を守った。楚漢戦争のさなか、彭城の戦いで劉邦が項羽に大敗すると、祖父と母は項羽の軍に捕らえられて人質となり、二人が返されたのは紀元前203年に両者が一時講和したときだったとされる。劉盈は魯元公主とともに難を逃れて劉邦と再会したが、馬車で逃げる途中、追手に怯えた劉邦は馬車を軽くしようと、二人を突き落としたという。このとき二人は夏侯嬰に救われた。その直後に王太子に立てられ、関中で父の留守を守った。紀元前202年に劉邦が皇帝に即位すると、劉盈は皇太子となった。中国の帝制の歴史で最初の皇太子であったとされ、「盈太子」と呼ばれた。
しかし、温和で寛容な気質は劉邦の気に入らなかった。劉邦は、自分に似ていると考えた寵姫戚氏の子、劉如意を愛し、皇太子を替えようとしたため、劉盈はたびたび廃嫡の危機にさらされた。このとき母の呂雉をはじめとする呂氏一族や張良らが支え、多くの重臣の支持も集めた。商山の四皓とは、秦末の乱世に商山で隠棲した、髪もひげも白い老賢人四人のことで、劉邦が熱心に招いても朝廷に仕えようとしなかった。呂雉は有力な官僚であった張良のもとを訪ね、劉邦がかねて彼らを招きたがっていたことを聞いた。こうした経緯のなかで四皓の支持を得たことも、地位が守られる助けになったとされる。
紀元前195年に劉邦が没すると、劉盈は即位した。だが政治は皇太后となった呂雉が握った。呂雉は後継者争いの政敵であった趙王劉如意と、その母の戚氏らを殺害した。劉盈は如意の暗殺の企てを事前に知り、自ら寝食を共にして守ろうとしたが、果たせなかった。この残虐な行為に衝撃を受けた劉盈は政務を放棄し、酒色にふけるようになり、その乱れた生活のために、23歳で亡くなった。生母のはっきりしない子女として、後に前少帝となる子や淮陽王劉彊、常山王劉不疑、後少帝劉弘らが挙げられる。皇后は姉魯元公主と張敖の娘である張皇后で、劉盈の姪にあたるが、二人の婚姻は呂雉の主張によるもので、子はなかった。
後世、恵帝は高祖の不興を買い、呂雉の横暴を止められなかったことから、惰弱な人物と評されることが多い。一方で、廃嫡問題が表面化したときには重臣の支持を得たこと、父の親征中は留守を預かって務めを果たしたことも伝わる。庶長子の劉肥が恵帝より上座に座ったことに怒った呂雉が劉肥に毒杯を与えようとしたとき、恵帝がその杯を自分で取って救おうとし、呂雉が慌ててこぼして未遂に終わったという逸話もある。『漢書』の恵帝紀によれば、始皇帝の時代から続いた焚書を中断させたのは恵帝だという。死後、跡継ぎはおらず、呂雉は恵帝の子とされる二人の少帝を立てたが、紀元前180年の誅呂安劉で呂氏が滅ぼされた際、生存していた者はすべて殺された。