HISTORICAL PERSON · 414年没

僧肇

長安の貧家に生まれ、老荘や玄学に親しんだ中国後秦の仏僧。鳩摩羅什門下の四哲の一人で「解空第一」と賞賛された。『肇論』などを著して羅什の訳経を補佐し、三論宗の祖にも位置付けられる。

生涯
414年没
死亡地
金(陝西省 / 長安)
出生地
—
出典
世界地図
金(陝西省)

伝記

僧肇は、中国の後秦の仏僧である。鳩摩羅什の門下で、道生、慧観、僧叡と並んで「四哲」と称された。鳩摩羅什からは「解空第一」、すなわち空の理解の第一人者と賞賛された。中国仏教史と中国哲学史の重要人物であり、仏図澄、釈道安、鳩摩羅什、廬山慧遠らと並ぶ、格義仏教後の中国仏教の形成者、また吉蔵に先立つ三論宗の祖に位置づけられる。

京兆、すなわち長安の貧しい家に生まれた。生没年は、『高僧伝』に414年に31歳で没したとあることから384年生まれとなるが、それでは早熟すぎるなどの理由から、実際は374年生まれとする説もある。出家前は書物を書き写す仕事で生計を立て、そのなかで経書や史書の古典に通じ、とくに老荘思想や玄学に親しんだ。老子の『道徳経』を好んだとも伝えられるが、支謙訳の『維摩経』を読んで深く感銘を受けたことが、出家のきっかけとなった。この出会いが人生を一変させたといわれる。

出家後は、大乗と小乗の三蔵に通じ、若くして長安の学界で名を馳せた。鳩摩羅什が姑臧に来ると、その地に赴いて弟子となった。以後は長安で鳩摩羅什の訳経を助けながら、自らの著作を執筆した。長安に集った八百人ほどの学僧のなかで最も優れていたとされ、鳩摩羅什が翻訳を行うときは、いつも筆を執って語句の意味を定めたと伝えられる。インドの術語を中国語として自然な文体に移す力に、師が頼っていたことがうかがえる。

代表作の『肇論』は、『物不遷論』『不真空論』『般若無知論』『涅槃無名論』の4篇に、『宗本義』1篇を冠した論文集である。論文集としてまとめられたのは、没後の南朝の梁・陳の時代と推定され、『涅槃無名論』と『宗本義』には偽書説もある。最も早く成立したのは405年前後の『般若無知論』で、鳩摩羅什に賞賛され、同門の道生を通じて東晋にも伝えられた。篇末には、廬山慧遠の友人である劉遺民との往復書簡をまとめた『劉遺民書問』が付されている。『涅槃無名論』は4篇のうち最後に成立し、鳩摩羅什の没後、皇帝の姚興の求めで書かれた。龍樹の『中論』などの影響に加えて、老荘思想や玄学の影響が随所にみられ、それまでの中国の仏教の学派が有や無に執着していたことを批判して、あらゆる存在は空であると結論づけた。

『維摩経』の主要な注釈書である『註維摩詰経』は、自身の注釈や序文に加えて、鳩摩羅什や同門の竺道生らの解釈も伝え、後世に基本的な注釈書として受け入れられ、現代でも参照される。日本では聖徳太子の『維摩経義疏』が本書を参照しており、「本地垂迹」という語の初出も、その序文にみえる。そのほか『百論序』『長阿含経序』『鳩摩羅什法師誄』などが現存する。『肇論』は陳から唐代の三論宗で重んじられ、のちの禅仏教にも影響を与えた。日本にも三論宗とともに伝わったが、中国に比べて老荘が浸透していなかったためか、あまり重要視されなかった。20世紀には、敦煌・トルファンで僧肇単注本の写本も発見された。『肇論』には、陳の恵達、唐の元康、宋の浄源、元の文才、明の徳清らの注釈書が現存し、明の雲棲祩宏や紫柏真可も随筆で論じている。『碧巌録』には僧肇の死にまつわる話があるが、おそらく後世の作り話とされる。研究は中国では1930年代の湯用彤を筆頭に盛んで、日本でも1955年に塚本善隆を代表者とする京都大学人文科学研究所の班が『肇論研究』を刊行したが、老荘の要素の強さをめぐって意見が分かれた。

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