伝記
ティベリウス・センプロニウス・ロングスは、共和政ローマの政治家・軍人で、紀元前194年にスキピオ・アフリカヌスとともに執政官を務めた。紀元前174年に没した。父は同名で、第二次ポエニ戦争の初期にトレビアの戦いでハンニバルに敗れた紀元前218年の執政官である。
若い頃の経歴は、紀元前210年に父に代わって聖務十人委員となり、同じ頃に鳥卜官にも就いたとされる。護民官を務めたともいわれる。リウィウスは鳥卜官で十人委員のティ・センプロニウス・ロングスという人物に言及しており、高位の公職に就く前に鳥卜官となるのはやや奇妙だが、当時ほかに同名の人物の記録がないため、同一人物と考えられている。紀元前197年には上級按察官に選ばれ、プテオリ、ヴォルトゥルヌム、サレルヌム、ブクセントゥム(現在のポリカストロ・ブルセンティーノ)などに新しい植民市を建設する三人委員の一人となった。翌年は法務官としてサルディニアに赴き、そこに2年とどまった。
紀元前194年に執政官となってからも三人委員の職にとどまり、3年前に始まった植民市の建設を続けた。この任期中は法制、特に移民に関する事柄に力を注いだほか、ローマ直轄地のプテオリやサレルヌムなどカンパニア地方を巡察した。一方、北イタリアのガリア・キサルピナで、軍がボイイ族に包囲された。センプロニウスは部下を抑え、援軍を待つよう命じたが、3日ほど待つとボイイ族が攻撃に出た。野営地の出入口は敵兵であふれ、ローマ軍は出撃もままならず、野外で戦列を整えようとした時には、ボイイ族が別の2か所から陣に入り込んでいた。それでも、野営地の外で戦う形に持ち込むとガリア人を撃退したが、ローマ側の戦死者は5,000人にのぼったとされる。この戦いの結果は、疑わしい成功だったと評される。
執政官の任期の終わり頃、センプロニウスはプラケンティアに居を移し、その後の記録はよく分かっていない。翌年にリグリア人がプラケンティアを攻撃しようとすると、ローマへ使者を送って救援を求めた。ボイイ族との戦いで共に戦った退役兵が召集され、執政官ルキウス・コルネリウス・メルラの指揮のもとで防衛を担い、センプロニウスはモデナの戦いで副官を務めた。その2年後には、執政官マニウス・アキリウス・グラブリオの副官として、ギリシアでのアンティオコス3世との戦いに加わった。紀元前184年には監察官に立候補したが、敗れた。その10年後、ローマを襲った大きな疫病のさなかに世を去った。
同じ年に亡くなった人物
- グナエウス・セルウィリウス・カエピオ (紀元前203年の執政官) (紀元前174年没)
- プブリウス・アエリウス・パエトゥス (紀元前201年の執政官) (紀元前174年没)
- ヘリオドロス (紀元前174)
- 冒頓単于 (紀元前174年没)
- ティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌス (紀元前174年没)
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