HISTORICAL PERSON · 1204年没

アレクシオス5世ドゥーカス

東ローマ帝国アンゲロス朝第4代皇帝(在位1204年)で、渾名は濃い眉に由来するムルツフロス。アレクシオス3世の娘婿。カナボスやアレクシオス4世を殺して即位し、十字軍に敗れ逃亡したが捕縛され処刑された。

生涯
1204年没
死亡地
トルコ共和国(イスタンブール県 / コンスタンティノープル)
出生地
トルコ共和国(コンスタンティノープル)
出典
世界地図
トルコ共和国(イスタンブール県)

伝記

アレクシオス5世ドゥーカスは、東ローマ帝国アンゲロス王朝の第4代皇帝(在位1204年)で、その治世はわずか二か月ほどであった。ムルツフロスという渾名は、濃い眉毛が両端でつながるほどであったこと、あるいは眉をひそめる癖に由来するとされる。ドゥーカスという有力な貴族の家名を名乗ったが、出自ははっきりしない。曾祖父が皇帝アレクシオス1世だとする説や、アレクシオス4世の従兄弟にあたるイサキオス・ドゥーカスの子だとする説もあるが、この姓は帝国でよく見られるもので、家との関係は不明である。生年も分からない。ある研究は、出身はむしろ質素で、ドゥーカス家の傍流であっただろうと推測している。アンゲロス家とは直接の血縁がなく、アレクシオス3世の娘エウドキアと結婚した娘婿であった。エウドキアはセルビア君主ステファン・ネマニャと結婚し、死別していた。同時代の主な歴史家ニケタス・ホニアテスは、ムルツフロスから財務行政の長官職を解かれたため彼に批判的だが、頭脳の鋭さは認めつつ、傲慢で好色でもあったと描く。ほかの同時代の著者たちも、特にラテン人の著者は概して好意的でない。

政治の舞台に現れたのは、1200年から1201年にかけてのヨハネス・コムネノスによる反乱の企てに加わったときである。この反乱は、コムネノス家の復位をめざしたもので、彼は真の首謀者だったとされることもある。投獄されたが、1203年に第4回十字軍の圧力でイサキオス2世が復位するころ、釈放されたと考えられる。その後、財務大臣に相当するプロトウェスティアリオスの地位で政府に入り、共同皇帝アレクシオス4世に強い影響力を持った。

1204年の初めには、アレクシオス4世とイサキオス2世は不人気になっていた。都に留まる十字軍は、債務の支払いが遅いとして市街の一部を略奪し、火災で住民の3分の1が家を失ったともいわれた。ムルツフロスは抵抗の指導者を自任して人気を集め、乗馬を倒されたが、市民の射手に命を救われたという。第4回十字軍への献納金が過酷で、国民や貴族は両帝を見捨て、1月にニコラオス・カナボスという青年を皇帝候補に擁立した。ムルツフロスは、こうした状況を陰で操っていたが、それに気づかなかったアレクシオス4世は、彼を十字軍への支援要請の使者に立てる失敗を犯した。ムルツフロスは自ら帝位につくことを決意し、同月末にアレクシオス5世として即位し、翌2月にはカナボスとアレクシオス4世を殺害して権力を握った。イサキオス2世は息子の死に衝撃を受け、間もなく死去した。ムルツフロスはビザンツ人の擁護者として振る舞い、十字軍への献納金を破棄して国民の支持を得た。

しかし、これに怒った十字軍に首都コンスタンティノープルを攻撃され、防衛に失敗して逃亡した。その最期については、十字軍に捕らえられ、テオドシウス記念塔の頂上から突き落とされて殺されたともいわれ、ラテン人の新政権によって1204年末に処刑されたともいわれる。皇位はコンスタンティノス・ラスカリスに継承されたが、首都はすでに陥落寸前で、防げるものではなく、コンスタンティノープルは陥落し、東ローマ帝国は一時的に滅亡した。

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