伝記
源頼家は、鎌倉幕府の第2代将軍(鎌倉殿)である。鎌倉幕府を開いた源頼朝の嫡男で、母は北条政子である。寿永元年(1182年)8月12日、鎌倉の比企ヶ谷にある比企能員の屋敷で生まれた。幼名は万寿という。頼朝36歳のときに生まれた待望の後継ぎで、乳母父には比企能員が選ばれ、乳母も主に比企氏の一族から選ばれた。建久4年(1193年)5月、富士の巻狩りで12歳の頼家が初めて鹿を射ると、頼朝は喜んで政子に使いを送ったが、政子は「武将の嫡子なら当たり前のことである」と使者を追い返したと伝わる。この巻狩りでは、曾我兄弟の仇討ちも起こった。建久6年(1195年)には、頼朝や政子とともに上洛し、都で後継者として披露された。建久8年(1197年)、16歳で従五位上右近衛権少将となり、武芸の達人に成長した。翌年には長子の一幡が生まれた。
建久10年(1199年)1月13日に頼朝が急死し、頼家は、26日に家督を継いで第2代鎌倉殿となった。18歳であった。3か月後の4月、北条氏ら有力な御家人による十三人の合議制がしかれ、頼家が直に訴訟を聴断することは停止された。反発した頼家は、小笠原長経、比企三郎ら若い近習5人を指名して、彼らでなければ目通りを許さないと命じた。10月には、侍所長官の梶原景時を糾弾する御家人66名の連判状が頼家に出され、景時は鎌倉を追放された。正治2年(1200年)1月20日、景時は一族を連れて京都へ上る途中、在地の御家人に襲われ、一族もろとも滅んだ。慈円は『愚管抄』で、景時を死なせたことを頼家の失策と評した。建仁2年(1202年)7月22日に従二位に叙され、征夷大将軍に任じられた。
建仁3年(1203年)5月、頼家は、弟の千幡の乳母である阿波局の夫で叔父の阿野全成を、謀反の罪で逮捕し、殺した。阿波局を逮捕しようとしたが、その姉の政子が引き渡しを拒んだ。3月ごろから体調を崩していた頼家は、7月半ばに急病になり、8月末には危篤となった。9月1日に頼家が病死し、千幡が跡を継いだという報告が、7日の早朝に都へ届いたが、頼家はまだ生きていた。9月2日、頼家の乳母父で、一幡の祖父にあたる比企能員が、北条時政に殺され、比企一族は滅ぼされた。『吾妻鏡』によれば、能員が千幡と北条氏を討つ企てをしたためという。一人残った頼家は、病状が少し回復して事件を知り、激怒して時政の討伐を命じたが、従う者はなく、9月7日に鎌倉殿の地位を追われて、千幡がこれに替わった。『愚管抄』は、これを知った頼家が太刀を手に立ち上がったが、政子に押さえつけられたと記す。11月、一幡は捕らえられ、北条義時の手勢に殺されたという。
頼家は、伊豆の修禅寺に押し込められ、翌元久元年(1204年)7月18日、北条氏の手勢に殺された。享年は数えで23、満21歳であった。『愚管抄』は、抵抗した頼家の首に紐を巻きつけて殺したと伝え、『保暦間記』は、入浴中に殺されたという。北条氏が編んだ『吾妻鏡』は、頼家を遊興にふけり、家臣の愛妾を奪おうとした暗君として描くが、頼家を貶める記述は北条氏による政治的な作為と考えられている。十三人の合議制についても、近年の研究では、宿老の合議を経て頼家が最終判断を下す方式で、親裁そのものは否定していないとされる。『愚管抄』は、頼家の武芸の腕前が古今に並びないことは隠れもない評判だったと記し、『六代勝事記』も、百発百中の芸に長じたと記した。
同じ年に亡くなった人物
- グットルム・シグルツソン (1204年没)
- アリエノール・ダキテーヌ (1204年没)
- マリー・ド・シャンパーニュ (1204年)
- アルペトラギウス (1204年没)
- モーシェ・ベン=マイモーン (1204年没)