伝記
イムレは、1174年に生まれ、1204年11月30日に没した、アールパード朝のハンガリー国王でありクロアチア国王(在位1196年から1204年)である。ハンガリー王ベーラ3世と、最初の妻であるアンティオキア公女アニェスの長子として生まれた。1182年5月16日、8歳のとき、王位継承権を確認するため、エステルゴム大司教ニコラスによって戴冠された。1195年ごろ、父はイムレをクロアチアとダルマチアの統治者に任命した。
1196年4月23日にベーラ3世が没し、イムレは跡を継いだ。ベーラ3世は生前、十字軍として聖地に遠征することを条件に、領地と金銭をイムレの弟アンドラーシュに遺していた。しかし、アンドラーシュは独立した公国を要求して、1197年にイムレに反乱を起こした。オーストリア公レオポルト6世がアンドラーシュに味方したが、1197年末にイムレはその連合軍を破った。それでも、1198年の初め、イムレはアンドラーシュにクロアチアとダルマチアを公国として授けなければならなくなった。アンドラーシュはなおもイムレに対する陰謀をめぐらせた。1199年の夏、イムレはバラトン湖の近くでアンドラーシュの軍を破り、アンドラーシュはオーストリアに逃げた。1200年の夏、教皇特使の仲裁で、イムレはアンドラーシュのクロアチアとダルマチアの領有を承認した。
1200年ごろから、ハンガリーはバルカン半島の情勢に深く関わった。1200年10月11日、教皇はイムレに、異端とみなすボスニア教会の弾圧を促し、イムレの求めに応じて、セルビアのステファン・ネマニッチへの戴冠を拒んだ。1201年か1202年にセルビアに進攻し、ステファンと対立する弟ヴカシンを助け、1202年にハンガリーの君主として初めて「セルビア王」の称号を使った。1202年11月24日、第4回十字軍は、教皇の禁止にもかかわらず、ヴェネツィアの求めで、ハンガリーの勢力下にあったダルマチアの都市ザダルを占領し、ヴェネツィアに譲った。教皇は両者を破門したが、ザダルはヴェネツィアの支配下に残った。1203年4月、ボスニアのバン・クリンは、イムレの宗主権を承認した。
1203年の秋、アンドラーシュが再び反乱を起こし、10月、両軍はドラーヴァ川近くで対峙した。イムレは武装を解いてアンドラーシュの陣営に向かい、「王族の血を流すために手をあげる者がいるか、いまわかる」と呼びかけたと伝えられる。誰も近づこうとせず、イムレはアンドラーシュを逮捕した。アンドラーシュは数か月監禁されたが、1204年の初めに支持者の手引きで脱走した。ハンガリーの内戦に乗じて、カロヤンはベオグラードなどの城砦を占領した。イムレは反撃を準備したが、教皇の介入で軍を解散させた。教皇は、教会合同の交渉を進めていたカロヤンに王冠を授けたが、その王冠を携えた特使がハンガリーを通るとき、イムレは特使を投獄した。
1204年8月26日、重病のイムレは4歳の息子ラースローに戴冠し、教皇特使を釈放した。イムレは、ラースローが成年に達するまでの間、アンドラーシュが後見人となり、国の統治を任されることを条件に、アンドラーシュと和解したという。11月30日に没し、遺体はエゲルの大聖堂に葬られた。1196年から1200年の間に、アラゴン王アルフォンソ2世の娘コンスタンツィアと結婚し、1200年ごろに唯一の子ラースローが生まれたが、ラースローは1205年5月7日に早世した。イムレは、アールパード・ストライプを個人の紋章に使った最初の君主で、これはのちにハンガリーの国章の一部になった。
同じ年に亡くなった人物
- 神宗 (高麗王) (1204年没)
- アリエノール・ダキテーヌ (1204年没)
- Michael Glycas (1204年没)
- クリン・バン (1204年没)
- ホーコン3世 (ノルウェー王) (1204年没)
同じ地域に関係する人物
- Tivadar Monostori (2014年没)
- Janos Csernoch (1927年没)
- カール・フォン・エスターライヒ=エステ (1809年没)
- Alexander Rudnay (1831年没)
- マリア・ラスカリナ (1270年没)