伝記
グットルム・シグルツソンは、1199年に生まれ、1204年8月11日に没した、ノルウェー内乱時代の王(在位1204年1月2日から8月11日)である。ノルウェー王スヴェレ・シグルツソンの孫で、父はシグル・ラヴァールの庶子、母は不明である。シグル・ラヴァールは、父スヴェレ(1202年没)よりも先に亡くなり、スヴェレの跡は、弟のホーコン3世が継いだ。
ホーコン3世は、1204年1月1日に没するまで王位にあった。短い治世の間、ビルケバイン党とバグリ党の和平と再統一のための政策を進めていたが、その死後、両党の関係は崩れ、内戦は新たな段階に入った。ビルケバイン党の一部は、バグリ党との和解という政策に不満を持っていた。それがホーコン3世の死につながった可能性があり、その後、党内の権力は、すぐにホーコン狂伯の側の派閥に移った。ホーコン3世の死の翌日、ビルケバイン党は、ベルゲン司教マルティヌスと協議し、親族会議でグットルムを王に任命した。このとき、わずか4歳であった。スヴェレの甥ホーコン狂伯は、同時に、傭兵と軍の指導者として摂政に任じられた。『バグルンガのサガ』によれば、幼い王は剣を取って、それをホーコンの腰に取り付け、盾を手渡した。さらに、すべての首長の同意を得て、ホーコンに伯爵の称号を与え、王座の自身の隣に座らせたという。ホーコンの飛びぬけて強い地位は、伯爵の慣習による低い席ではなく、王と同じ高さに座ることで示された。スヴェレの別の甥ペーテル・ストイパは、スヴェレの娘セシリアの夫エイナル・コングスモーグとともに、グットルムの後見人となった。
好戦的で権力に飢えたホーコン狂伯(バグリ党は「狂犬」と呼んだ)が重要な役職についたことは、ビルケバイン党内の対立と、バグリ党との関係の悪化につながった。バグリ党は、ビルケバイン党との和解にほとんど望みがないと考えて、デンマークに向かい、1203年に党の一部が王に推そうとした、マグヌス5世の庶子とされるアーリング・スタインヴェグのもとに団結した。この反乱は、ノルウェーのヴィケンに対する、かつてのデンマークの大君主の地位を取り戻そうとした、デンマーク王ヴァルデマー2世の支持を受けた。ヴァルデマー2世は6月に300隻以上の船でヴィケンに着き、アーリングは、トンスベルグで王の前で神明裁判を受けた。王はアーリングに35隻の船を与え、アーリングは、別のバグリ党の対立者フィリップス・シモンソンとともに、ヴァルデマー2世への忠誠を誓った。バグリ党は、アーリングを王とし、フィリップスを伯爵として、すぐにヴィケンの支配権を得た。
グットルムは、春か初夏に、トロンハイムのオイラティングで、ビルケバイン党により王とされた。ホーコン狂伯がバグリ党と戦うために軍を集めているさなか、グットルムは突然病気になり、8月11日に死去した。ニーダロス大聖堂に葬られた。『バグルンガのサガ』の長いほうの版には、グットルムの病気と死は、死の直後にホーコン狂伯と結婚した、スウェーデン生まれのクリスティーナ・ニルスドッテルによるものだとほのめかされている。現代の歴史家は、数か月前のホーコン3世の急死についてビルケバイン党が広めた噂に由来するもので、疑わしいとする。ホーコン狂伯は信頼されず、強力な敵を作っていたため、王座を狙う試みは失敗に終わった。グットルムの死後、後継者のインゲ・ボードソンとバグリ党の間で小規模な内戦が続いたが、1207年に和解が成立し、王国は数年間分割された。王とされたにもかかわらず、グットルムは、ノルウェーの公式の君主一覧には含まれていない。
同じ年に亡くなった人物
- モーシェ・ベン=マイモーン (1204年没)
- イムレ (ハンガリー王) (1204年没)
- アレクシオス5世ドゥーカス (1204年没)
- アリエノール・ダキテーヌ (1204年没)
- マリー・ド・シャンパーニュ (1204年)
同じ地域に関係する人物
- イバール・バラングルート (1969年没)
- オッド・イヴェルセン (2014年没)
- Arne Johansen (2013年没)
- ペール・ボルテン (2005年没)
- Harald Gronningen (2016年没)