HISTORICAL PERSON · 1225年没

北条政子

北条時政の娘で頼朝の正妻。周囲の反対を押し切って伊豆の流人だった頼朝の妻となり、夫の死後は尼御台と呼ばれた。頼家・実朝の暗殺後は幼い三寅の後見として幕府の実権を握り、尼将軍と称された。

生涯
1225年没
死亡地
日本(神奈川県 / 鎌倉)
出生地
日本(伊豆国)
出典
世界地図
日本(神奈川県)

伝記

北条政子は、平安時代末期から鎌倉時代初期の政治家で、鎌倉幕府の初代将軍源頼朝の正妻である。父は伊豆の豪族北条時政で、その長女にあたる。周囲の反対を押し切って、伊豆の流人だった頼朝の妻となった。夫の死後に尼となり、尼御台と呼ばれ、法名を安養院といった。のちに、鎌倉殿として京から招いた幼い三寅の後見となって幕府の実権を握り、世に尼将軍と称された。

時政は、伊豆の在庁官人として、平治の乱で敗れ伊豆へ流された頼朝の監視役をつとめていた。時政が大番役で京にいるあいだに、政子は頼朝と恋仲になった。婚姻は治承元年(1177年)のころと推定され、『吾妻鏡』によれば、時政は大反対であった。最終的に時政は2人の婚姻を認め、政子は、まもなく長女の大姫を産んだ。北条氏は頼朝の重要な後援者となった。『曽我物語』には、政子の妹の阿波局が見た吉夢を、政子が小袖と引きかえに買ったという逸話もある。治承4年(1180年)、頼朝が挙兵したが、石橋山の戦いで惨敗し、政子の長兄宗時が討ち死にした。政子は伊豆山に留まり、頼朝の安否を気づかった。頼朝が鎌倉に入って東国の主となり、鎌倉殿と呼ばれると、政子も鎌倉に移って、御台所と呼ばれた。

養和2年(1182年)8月、政子は男子の万寿を産んだ。のちの2代将軍の頼家である。政子の妊娠中に、頼朝は亀の前という妾を寵愛した。時政の後妻の牧の方から知らされた政子は激怒し、11月に、牧宗親に命じて、亀の前が住んでいた伏見広綱の邸を打ち壊させた。頼朝は怒って、宗親の髻を自分の手で切り落とした。これに時政が怒り、一族を連れて伊豆へ引き上げる騒ぎになった。政子の嫉妬深さは、一夫多妻が当然だった当時としては異例だった。貴種の頼朝の正室としては出自が低く、地位が不安定だったためと考えられる。寿永2年(1183年)、頼朝は源義仲との和睦のため、義仲の子義高と、政子の長女大姫を婚約させた。元暦元年(1184年)、頼朝は義高の殺害を決め、大姫が義高を逃がしたが、義高は斬られた。大姫は悲しみのあまり病に伏し、政子は激しく憤り、頼朝はやむなく、義高を斬った郎党を晒し首にした。文治2年(1186年)、捕らえられた静御前に、政子は舞を所望した。静は頼朝の前で義経を慕う歌をうたい、頼朝は激怒したが、政子は「暗夜をさ迷い、雨をしのいで貴方の所にまいりました」と、辛かった若い日の思いを語ってとりなし、頼朝は静に褒美を与えた。この年、政子は次女の三幡を産んだ。

建久3年(1192年)、政子は男子の千幡を産んだ。のちの3代将軍の実朝である。建久4年、富士の巻狩りで頼家が鹿を射ると、頼朝は喜んで使者を送ったが、政子は「武家の跡取が鹿を獲ったぐらい騒ぐことではない」と使者を追い返したと伝わる。建久6年(1195年)、政子は頼朝とともに上洛し、大姫の後鳥羽天皇への入内を協議したが、大姫は重い病の床につき、建久8年(1197年)に20歳で亡くなった。『承久記』によれば、政子は自分も死のうと思うほど悲しんだという。次いで頼朝は三幡の入内を図ったが、建久10年(1199年)1月に急死した。政子は出家して尼となり、尼御台と呼ばれた。『承久記』によれば、政子は「子供たちを見捨てることはできなかった」と述べている。頼朝の死から2か月ほどして、三幡が重病になると、政子は鎌倉中の寺社に加持祈祷をさせ、京の名医を鎌倉に呼び寄せた。

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