伝記
サワは1174年ごろ(1169年ともいわれる)、セルビアの大公ステファン・ネマニャと妻アナの末子として生まれた。俗名はラストコという。3人兄弟の末っ子で、兄にはヴカンとステファン・ネマニッチがいる。温和で穏やかな性格で読書を好み、遊びを好んだ兄たちとは対照的だったという。若くして父の統治を助けるため領地の行政を任されたが、名声や富や王位に関心を示さず、神への完全な献身を望んだ。そのころ、アトス山の修道士たちが財政支援を求めて父のもとを訪れ、修道院の素晴らしさを語った。これに感銘を受けたラストコは、1192年の秋かその直後に密かにアトス山へ向かい、聖パンテレイモン修道院で修道士となってサワの名を受けた。父は連れ戻そうと兵を差し向けたが、兵が着いたときにはすでに修道誓願は終わっていたという。その後はヴァトペディ修道院にも約7年とどまり、ギリシアの神学や教会運営の文献に親しんだとされる。
父ネマニャは息子の影響を受け、1196年3月25日にストゥデニツァで退位して中の兄ステファンに位を譲った。翌日には妻アナとともに修道誓願をし、シメオンの名で修道士となった。シメオンは1197年の秋にアトス山へ渡り、親子はヒランダル修道院を設立した。この修道院はセルビア正教会とセルビアの教育にとって重要な存在となり、翻訳や著述が行われ、イコンも制作された。若い正教徒が学びに来て、そこからセルビア各地へ赴く司祭たちが育っていった。シメオンはこの修道院で修道士として亡くなった。
父の死後、跡目をめぐって兄のヴカンとステファン・ネマニッチがセルビアで内戦を始めた。国は危機に陥り、正教の信仰も消えかねない状況だった。ステファンは父の不朽体を携えて帰還するようサワに求め、サワはアトス山から父の不朽体を持ってセルビアに戻って兄弟の調停にあたり、内戦を終わらせた。ステファンはのちに初代のセルビア王となった。父の不朽体はストゥデニツァ修道院に納められ、サワはその指導者となって多くの修道士や教師を教育し、教会の組織化に着手した。同行した修道士たちを各地に派遣して司牧と伝道にあたらせ、しばしば人里離れた庵に籠って祈りを深めたという。
サワはさらに、ニカイア帝国の皇帝とコンスタンティノープル総主教庁に、セルビアの教会に独立の地位を与えるよう求めた。要請は受け入れられ、1219年にサワが初代のセルビア大主教に着座した。それまではギリシア人の主教が教区を導いていたが、以後は後任の大主教を総主教庁の許可なく選べるようになり、セルビアはオフリドの大主教管区から解放された。サワは兄ステファンに改めて戴冠を行い、各地の教区にはセルビア人の主教が立てられていった。宗教書の翻訳や、父の伝記『聖シメオン伝説』の執筆は、セルビア文語の発展に大きく貢献した。同じ1219年には法典『ザコノプラヴィロ』を著したとされる。
1233年、サワは大主教の位を退いて東方へ旅立ち、各地にセルビア人巡礼者のための宿泊施設を設けた。エルサレム巡礼の帰りにタルノヴォへ立ち寄り、神現祭を司祷したのち、肺炎を患ってそのまま亡くなった。1236年1月14日のこととされるが、1235年とする説もある。のち聖人とされ、父も列聖された。ブルガリア皇帝は遺体を留めるよう主張したが、甥のセルビア王ヴラディスラヴが粘り強く求め、1237年5月6日に不朽体はセルビアへ移された。1594年、オスマン帝国は不朽体を修道院から引き出し、ベオグラードで焼いた。それでも崇敬は止まず、焼かれた場所には聖サワ大聖堂が建てられた。
同じ年に亡くなった人物
- ルクヌッディーン・フィールーズ・シャー (1236年没)
- インゲボルグ (フランス王妃) (1236年没)
- ベルリンギエーリ (1236年没)
- ロジャー・オブ・ウェンドーヴァー (1236年)
- ゴティエ・ド・コワンシー (1236年)
同じ地域に関係する人物
- イヴァン・アセン2世 (1241年没)
- カリマン1世 (1246年没)
- ボードゥアン1世 (ラテン皇帝) (1205年没)
- ゲオルギ2世テルテル (1322年没)
- トリフォン・イヴァノフ (2016年没)