伝記
ルクヌッディーン・フィールーズ・シャーは、北インドのデリー・スルターン朝(奴隷王朝)の第四代君主である。在位は一二三六年の一年に限られる。デリーのスルターンのイルトゥトゥミシュと、トルコ系の侍女出身だった妃シャー・トゥルカーンの子で、生年は一二一一年とも、一二〇五年以前ともいわれる。
王子のころ、一二二八年にバダーウーンのイクター(領地)を与えられ、父の旧敵ナスィールッディーン・カバーチャに仕えていた元大臣アイヌル・ムルク・フサイン・アシュアリーの補佐を得て治めた。父は後継者として長男ナスィールッディーン・マフムードを育てていたが、この兄は一二二九年に急死した。父は残った息子たちが快楽にふけり、国政を担う力がないと述べたという。そして一二三一年にグワーリヤルへ出陣するにあたり、娘のラズィーヤにデリーの政務を預けた。ラズィーヤは政務をうまくこなし、帰還した父は、保守的な貴族の反対を押して、彼女を後継者とする文書の作成を命じた。一方、ルクヌッディーンは一二三三年にラホールの統治を任された。
ところが、イルトゥトゥミシュは死の少し前になって、ルクヌッディーンを後継者とすることに同意したらしい。重い病の床でラホールから彼を呼び戻し、一二三六年四月二十九日に父が亡くなると、貴族たちはラズィーヤがデリーにおらず、臨終に居合わせたのが兄のルクヌッディーンだったことから、彼を擁立した。即位は翌三十日(四月から五月の間ともいう)であった。ラホールやバダーウーンといった重要な地を治めて人々に注目されていたことも、その理由とされる。このころ、サイフッディーン・ハサン・カルルグが、イルトゥトゥミシュの死でスルターン朝が弱ると見て北インドに攻め入ったが、ウチの総督サイフッディーン・アイバクに破られて退いた。
歴史家ミンハージュ・スィラージュは、ルクヌッディーンについて、容姿の美しさ、穏やかな気質、気前のよさの三点をほめている。同じ歴史家によれば、彼は象に乗ることを非常に好み、象使いを重んじた。酔って象に乗り、市場に金貨をまき散らしたともいい、楽士や道化、宦官にも多くの金を使った。王座につくとすぐ快楽にふけり、政務は母のシャー・トゥルカーンにまかされた。母はもともと慈善や信仰の寄進で知られていたが、実権を握ると人柄が変わり、父の後宮の女たちを虐待して、何人もを「滅ぼした」という。母子は、父の若く人望のあった息子クトゥブッディーンを失明させたうえで殺すよう命じ、これが各地の反乱を呼んだ。アワドではイルトゥトゥミシュの子ガヤースッディーン・ムハンマド・シャーが挙兵し、ラホール、バダーウーン、ムルターン、ハーンスィーなどの領主たちも反旗を翻した。ルクヌッディーンは討伐軍を送ったが、宰相ニザームル・ムルク・ジュナイディーが軍を捨てて反乱側に加わった。その後、軍の中核をなすトルコ系の将校たちが、宰相と同じタージーク系の将校の多くを殺害する事件も起きた。
ルクヌッディーンはクハラームへ向けて出陣したが、その間にデリーでは、母がやはり処刑しようとしていた異母妹ラズィーヤが、集団礼拝で民衆を母に対して扇動した。群衆が宮殿を襲い、シャー・トゥルカーンは捕らえられた。貴族と軍の一部はラズィーヤに忠誠を誓い、彼女を王位につけた。ルクヌッディーンはデリーへ引き返したが、ラズィーヤの送った兵に捕らえられ、投獄された。同年十一月、ラズィーヤの命で処刑されたとされる。日付は九日とも十九日ともいわれ、在位は六か月二十八日だった。
同じ年に亡くなった人物
- ムイーヌッディーン・チシュティー (1236年没)
- ロジャー・オブ・ウェンドーヴァー (1236年)
- インゲボルグ (フランス王妃) (1236年没)
- ベルリンギエーリ (1236年没)
- サワ (セルビア大主教) (1236年没)
同じ地域に関係する人物
該当人物はまだありません。