伝記
カール・ニールセンは、1865年6月9日、デンマークのフュン島にある貧しい農家に、12人きょうだいの7番目として生まれた作曲家である。父ニルス・ヨアンセンはペンキ職人をしながら伝統音楽の演奏家としても活動し、フィドルやコルネットの腕前で地元の祝典に引っ張りだこだった。母は裕福な船乗りの家庭の出身で、幼いころに民謡を歌ってくれたことを、本人が自伝に書いている。6歳のとき母から小さなヴァイオリンを与えられ、ヴァイオリンとピアノを学んで、8歳か9歳のころにポルカと今は失われた子守歌を作ったという。1871年ごろからは父の楽団でヴァイオリンを弾いた。しかし両親は息子に音楽家としての将来性があるとは考えず、14歳のとき近くの村の商店主のもとへ丁稚に出した。店は倒産して家に戻らざるを得なくなり、金管楽器の演奏を学んで、1879年11月1日にオーデンセ大隊の軍楽隊でビューグルとアルトトロンボーンの奏者に抜擢された。
軍楽隊にいる間もヴァイオリンを諦めず、1881年には教会の管理人カール・ラースンに私的に学んだ。コペンハーゲンのデンマーク音楽アカデミーの学長ニルス・ゲーゼに紹介されて高い評価を受け、軍楽隊を除隊して、1884年からアカデミーで学び始めた。ヴァイオリンで受験して不合格となったが、ゲーゼに作品を見せたところ作曲科への入学が許されたとも伝えられる。傑出した学生ではなく作曲も少なかったが、ヴァイオリンの技術をしっかり身につけ、音楽理論の基礎も得た。ゲーゼは友人としては好んだものの、その音楽は好みに合わなかった。1886年にアカデミーを去り、1888年9月8日にチボリ公園で演奏された弦楽合奏のための小組曲が作品1となった。翌1889年9月、デンマーク王立管弦楽団の第2ヴァイオリン奏者となり、ヨハン・スヴェンセンの下で演奏して、ヴェルディの『ファルスタッフ』と『オテロ』のデンマーク初演を経験した。
王立劇場に就いて1年足らずで奨学金を得てヨーロッパを旅し、ワーグナーの楽劇には否定的な立場をとるようになった。1891年にはライプツィヒでブゾーニと出会い、以後30年以上にわたって書簡を交わす間柄となった。同年3月にパリで、やはり奨学金で旅をしていたデンマークの彫刻家アネ・マリーイと出会い、5月10日にフィレンツェで結婚した。しかし彼女は数か月ずつ家を空けることが多く、本人は作曲と劇場の仕事をこなしながら3人の子の面倒をみなければならなかった。この荒れた結婚生活の怒りと欲求不満は多くの音楽に昇華され、1897年から1904年ごろの作品は「心理」期と呼ばれることもある。
1892年に交響曲第1番を完成し、1902年には交響曲第2番『四つの気質』を発表した。1906年のオペラ『仮面舞踏会』はデンマークで欠かせない財産とされる。1908年にはスヴェンセンの後を継いで王立劇場の楽長となり、1916年にデンマーク音楽アカデミーの教員となって以後その職にとどまった。最後の交響曲となる第6番は1924年から1925年にかけて書かれた。1931年10月3日に心臓発作で世を去った。生前の評価は国内外で傍流にとどまったが、1960年代以降にバーンスタインらを通じて人気が高まり、国際的なレパートリーに入った。大衆向けの歌曲や合唱曲はデンマークの学校や家庭で歌われ、100クローネ紙幣には長年その肖像が描かれていた。
同じ年に亡くなった人物
- ジャン=ルイ・フォラン (1931年没)
- F・W・ムルナウ (1931年没)
- フリードリヒ・ヨハン・カール・ベッケ (1931年没)
- アルマン・ファリエール (1931年没)
- エマニュエル・ドルレアン (1931年没)
同じ地域に関係する人物
- ニールス・ボーア (1962年没)
- イングリッド・アヴ・スヴェーリエ (2000年没)
- クリスチャン9世 (デンマーク王) (1906年没)
- カール・テオドア・ドライヤー (1968年没)
- フィリップ・シャイデマン (1939年没)