伝記
フィリップ・ハインリヒ・シャイデマンは、1865年7月26日、ヘッセン選帝侯国の首都カッセルに、革や家具を扱う職人のフリードリヒと妻ヴィルヘルミーネの子として生まれたドイツの政治家である。姉妹が二人いた。1879年に父を亡くして一家は貧しくなり、同年から1883年まで印刷工の徒弟修業を受けた。1883年にドイツ社会民主党(SPD)に入党し、印刷業の植字工として働きながら、マールブルクでは大学で学び、哲学者ヘルマン・コーエンから深い感銘を受けたという。1889年にヨハンナ・ディッベルンと結婚し、3人の娘をもうけた。1895年に印刷業をやめ、各地の社会民主党系の新聞で編集者を務めた。1909年からは「ヘンナー・ピッフェンデッケル」の筆名で、ヘッセン方言の小説を地元紙に連載した。
1903年にゾーリンゲンの選挙区から帝国議会議員に初当選し、1918年まで議席を保った。1911年にSPDの党書記局の執行委員となり、1912年の選挙後には社会民主主義者として初めて議会の第一副議長に選ばれた。1913年に党の長年の指導者ベーベルが亡くなると、フーゴー・ハーゼとともに党議員団長に就いた。演説の才能とユーモアの感覚は、党を超えて高く評価された。1914年に第一次世界大戦が始まると、当初は戦争を支持して党内の反戦派と対立したが、大戦末期には併合も賠償も求めない妥協的な講和を主張した。1917年にSPDが分裂すると、フリードリヒ・エーベルトとともに「多数派」SPDの共同議長となった。1918年6月に帝国議会副議長に就任し、宰相マクシミリアン・フォン・バーデンの下で無任所の国務長官を務めた。これはSPDの議員が帝国政府に加わった初めての機会であった。
1918年11月9日、革命を支持するデモ隊が帝国議会に迫るなか、エーベルトが宰相に指名され、シャイデマンも国務長官に留まった。昼食のために議事堂へ行ったエーベルトとシャイデマンは別々のテーブルに座っていたが、外に集まった大群衆から演説を求める声が上がった。エーベルトは拒んだが、シャイデマンは窓際に駆け寄り、「古く腐った帝政は崩壊した。新しきドイツの共和国、万歳」と共和国の樹立を宣言した。食堂に戻ると、激怒したエーベルトに「お前には共和国を宣言する権利はない」と怒鳴られたという。その後、エーベルトらと臨時政府の人民代表委員となり、12月に独立社会民主党が離脱すると、エーベルトとともに委員長を務めた。1919年2月、ドイツ史上初の民選政府で首相に就いたが、パリ講和会議で連合国が示した内容があまりに制裁的であったことに反発して、ヴェルサイユ条約の受諾を支持する勢力と対立し、首相とSPD党首を辞した。
1920年から1925年までは故郷カッセルの市長を務めた。極右には民主主義の象徴と見なされて嫌われ、家にハーケンクロイツを落書きされた。1922年6月には、娘と散歩中に極右テロ組織のメンバーに青酸をかけられ、重傷を負った。1926年には、国防軍がソ連軍と極秘に兵器開発で協力していることを国会で暴露し、第3次マルクス内閣を退陣に追い込んだ。1933年のナチ党政権の成立直後に国外へ逃れ、プラハ、スイス、フランス、アメリカを経てデンマークへ移り、1939年11月29日にコペンハーゲンで亡くなった。1953年に遺灰が故郷カッセルに帰り、中央墓地に埋葬された。
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