伝記
足利義詮は、室町幕府の第2代征夷大将軍である。1330年6月18日に、初代将軍となる足利尊氏の三男として生まれた。母は鎌倉幕府の執権だった赤橋守時の妹、登子である。幼名は千寿王といい、兄が二人いたが、登子が尊氏の正妻だったため嫡男とされたと考えられている。1333年に父が上洛して幕府軍の総大将となったとき、母とともに北条家の人質として鎌倉に留め置かれたが、父が幕府に背くと、足利家の家臣に連れ出されて鎌倉を脱出し、父の名代として新田義貞の軍勢に合流して鎌倉攻めに加わった。足利氏の嫡男の参加は、様子を窺っていた東国武士の参戦を促したとされる。幕府滅亡後も細川和氏らの支えを得て鎌倉に滞在し、戦後処理にあたり、建武の新政のもとでは叔父の直義に支えられた。1335年4月に従五位下に叙された。
1349年8月、高師直がクーデターを起こして直義が失脚し、その和約には直義から義詮への政務の移譲が盛り込まれた。義詮は同年10月に鎌倉から上洛し、直義の政庁だった三条坊門第に入って、所領裁判などをつかさどった。1350年10月に尊氏が出陣すると京の留守を任されたが、直義が京を脱出して挙兵し、多くの武将がそちらについたため、義詮は孤立して尊氏に合流した。1351年2月に尊氏軍は摂津の打出浜で敗れ、高一族が殺された。幕政に戻った直義との関係は良くなかったとされる。同年11月に尊氏が南朝に降って正平一統が行われると、義詮は南朝との交渉に積極的に関わり、和睦の条件に不満な尊氏を説得して和議の成立に貢献したとされる。
1352年閏2月、和議を破った南朝方が京に攻め込み、義詮は近江へ逃れ、北朝の光厳・光明・崇光の三上皇と廃太子の直仁親王が奪われた。義詮は兵を募って京を奪還し、広義門院を治天の君に見立てて皇嗣を指名させ、後光厳天皇の即位を実現させた。同年7月には、戦乱の兵糧米の徴収率を定めた半済令を出し、これも義詮が主導したとされる。1353年6月に南朝方が再び京に侵攻すると、後光厳天皇とともに美濃の小島へ逃れ、9月に鎌倉から帰った尊氏と合流して京を取り戻した。1355年1月には直冬らが上洛したが、義詮は近江に逃れた尊氏と協力して挟撃し、1か月ほどの戦いの末に撃退した。
1358年4月30日に尊氏が没し、8月には側室の紀良子との間に、のちの3代将軍義満が生まれた。義詮は12月に征夷大将軍に任じられ、訴訟制度の整備に着手して、将軍の親裁権の拡大をはかった。このころは中国地方の山名氏や大内氏が向背を定めず、九州では南朝勢力が健在で、1361年には仁木義長が南朝に降り、細川清氏も離反するなど、幕府内の争いが絶えなかった。1362年7月には、13歳の斯波義将を執事に任じたが、実権は父の高経が握った。1363年春に大内弘世と山名時氏が幕府に帰参して中国地方がほぼ平定されると、政権は安定し始めた。1366年8月、義詮は高経に京からの退去を命じ、高経は一族を率いて越前へ下って失脚した。その後、斯波氏が押領していた寺社本所領を返し、保護する政策を進めた。
1367年9月、義詮は細川頼之を讃岐から上洛させ、11月に管領に任じて、幼い義満を託した。12月7日に病のため38歳で亡くなった。死の間際には春屋妙葩と黙庵周諭が付き添い、仏事を行った。遺骨は鎌倉の浄妙寺光明院に納められ、瑞泉寺と円覚寺黄梅院にも分骨が許された。尊氏の死からわずか9年のことであった。
同じ年に亡くなった人物
- ペドロ1世 (ポルトガル王) (1367年没)
- ジル・デ・アルボルノス (1367年没)
- ボグダン1世 (1367年没)