伝記
グナエウス・ドミティウス・アヘノバルブスは、共和政ローマ後期の政治家・軍人である。紀元前96年の執政官を務め、紀元前92年には監察官にも就いた。プレブス(平民)のドミティウス氏族アヘノバルブス家の出身で、父は同名のグナエウス・ドミティウス・アヘノバルブスである。生年は不明で、執政官に就ける年齢の規定から逆算して推定されている。アヘノバルブスという家名は「青銅のひげ」を意味する。家に伝わる話では、この氏族の祖先が、神々しい双子の若者に出会い、ローマ軍の勝利を民衆に告げるよう頼まれた。その証として若者たちが祖先の黒いひげを青銅色に変えたため、この呼び名が世襲の家名になったという。曽祖父は一族で初めて執政官に就いた人物で、弟のルキウスも後に執政官となった。アスコニウスはクィントゥス・ルタティウス・カトゥルス・カピトリヌスを彼の甥としているが、この親族関係は研究者のあいだで確定していない。
公職の経歴は、貨幣鋳造三人委員から始まったと考えられる。紀元前108年に就任したとされるが、時期については研究者のあいだで意見が分かれる。クラッススと並んで名が刻まれたデナリウス銀貨の一連が残っており、二人は若いころ同じ貨幣鋳造三人委員を務めたとする説が有力である。紀元前104年(紀元前103年ともいわれる)には護民官に選ばれた。この年、キンブリ族との戦争を不法に始めたとして、元執政官のマルクス・ユニウス・シラヌスを告発したが、有罪にはできなかった。この件には、父と親交のあったガリア人エグリトマルスをシラヌスが侮辱したことが絡んでいたともいわれる。
同じ年に父が亡くなったが、父の後任の神祇官には選ばれなかった。これに腹を立てたアヘノバルブスは、父の同僚だった神祇官マルクス・アエミリウス・スカウルスを儀式の不備で告発したが、無罪となった。さらに、それまで神官団が自ら補充していた神官を、民衆の選挙で選ぶ法案を提出した。全35トリブスの半数に満たない17トリブスだけが投票する、許容されるぎりぎりの線の方式であった。この法により紀元前103年に神祇官となり、同時に最高神祇官にも選ばれ、先に亡くなったルキウス・カエキリウス・メテッルス・ダルマティクスの後を継いだ。最高神祇官の地位は死去まで保ったとされる。
紀元前100年には、元老院派と護民官ルキウス・アップレイウス・サトゥルニヌスの一派との対決にかかわった。キケロは、武器を手にするためサンクス神殿に集まった貴族の名として、「グナエウスとルキウスのドミティウス」を挙げている。紀元前99年にプラエトル(法務官)となり、紀元前96年にガイウス・カッシウス・ロンギヌスとともに執政官に選ばれた。スエトニウスによれば、ガリア人のアッロブロゲス族とアルウェルニ族を征服し、象にまたがってガリア属州を行進したという。
紀元前92年には、弁論家として名高いルキウス・リキニウス・クラッススとともに監察官となった。二人は、多弁によって公共の道徳を損なうとしてラテン語の修辞学教育を抑えたと伝えられる。しかし両者の仲は悪く、アヘノバルブスはクラッススの贅沢好きを攻撃するなど口論が絶えなかった。この任期中、マルクス・アエミリウス・スカウルスが元老院の筆頭議員に再び指名されている。アヘノバルブスは紀元前89年ごろに没した。ルキウス・ドミティウス・アヘノバルブス(紀元前54年の執政官)は、その子と思われる。
同じ年に亡くなった人物
- ビテュニアのテオドシオス (紀元前 89年)
- Lucius Afranius (紀元前89)
- ティトゥス・ディディウス (紀元前89年没)
- マルクス・アエミリウス・スカウルス (紀元前89年没)
- ルキウス・ポルキウス・カト (紀元前89年没)
同じ地域に関係する人物
- スプリウス・カッシウス・ウェケッリヌス (紀元前485年没)
- エウトロピア (350年没)
- Gnaeus Flavius (紀元前300)
- プブリウス・リキニウス・クラッスス・ディウェス・ムキアヌス (紀元前130年没)
- ボニファティウス8世 (ローマ教皇) (1303年没)