伝記
グナエウス・フラウィウスは、解放奴隷の子として生まれ、共和政ローマで按察官にまで昇った人物である。法の知識がエリートの特権だった時代に、その知識を公開したことで知られる。
フラウィウスは執政官アッピウス・クラウディウス、すなわち「盲目の」と呼ばれるアッピウス・クラウディウス・カエクスの書記(スクリバ)を務めた。この職は国庫から給与が支払われる公務で、ここでの経験によってローマ法についての深い知識を得ることができた。ローマ法はそれまで、支配層の特権として扱われてきた。紀元前451年に平民が要求して成文化を実現させ、のちに十二表法となる法典が作られたが、貴族の裁判官たちは、その解釈を平民に対して秘密にし続けていた。これは平民と貴族の長い対立の一部であった。
そうしたなかでフラウィウスは、訴訟の手続き、すなわち法律訴訟(レギス・アクティオネス)の方式を初めて公刊した人物となった。伝えによれば、訴えを有効にするために唱えなければならない法的かつ宗教的な定型文の集成で、貴族たちはそれまで神官団の記録の中に隠してきたものを、アッピウスから持ち出して公表したとされる。同じように、裁判を行ってよい日、つまり宗教的に好ましい日(ファスティ)と好ましくない日(ネファスティ)も公にした。これらはティトゥス・リウィウスや『学説彙纂』が伝える話であり、キケロも『ムレナ弁護』でこれに言及している。これらの公表は平民の間で喜ばれた。権利を知っていても、訴訟を始めるための定型文を知らなかったために、それを主張できなかった平民が多かったためである。
こうして高まった名声の結果、フラウィウスは紀元前304年の按察官に選ばれた。按察官は公共建築物の維持、穀物の購入、祭礼の統制を担う二人の官職の一つである。当時、解放奴隷の子は単に「リベルティヌス」とみなされていたが、それでも選ばれたのである。この当選は伝統的な支配層に衝撃を与え、増大する解放奴隷の投票力を抑える目的で、投票者登録の「改革」が行われたという。フランス語版の記述では、彼は紀元前303年に高級按察官と平民護民官に選ばれ、その後は元老院に入ったとされる。
按察官としてのフラウィウスは、法的な業務が許される日を示す暦、つまり「ファスティ」の日を示す暦を、フォルムに掲示した。これは、人々が日を知るために神官に尋ねなくて済むようにするためであった。また在職中にコンコルディア(和合)の女神にささげる小祠を、フォルム・ロマヌムに建てる事業を引き受けたという。ローマの法はもともと口頭のものであり、言語学者は法を意味するラテン語の「ユス」を「定型文」と訳す。研究者アンドレ・マグドレーヌは、言葉が効力を持つことがそこから理解されるべき出発点だと述べ、法律でさえ、掲示される前に口で宣言されなければならなかったという。法の公表は、法が口頭で伝えられるものから文字で記されるものへ移る歩みと、宗教から切り離されていく歩みの中の一段階とされる。十二表法の公開に続くものであり、彼の名を冠した「フラウィウス市民法」は、ローマ法の大規模な編纂が『学説彙纂』の名で行われた紀元530年の時点でも、なお知られていた書物であった。
同じ年に亡くなった人物
- マケドニアのストラトニケ (紀元前300)
- ラナッサ (紀元前300)
- Cineas (紀元前300)
- メガロポリスのケルキダス (紀元前300)
- ダッタートレーヤ (紀元前300)
同じ地域に関係する人物
- ティトゥス・マンリウス・トルクァトゥス (紀元前299年の執政官) (紀元前299年没)
- オレスト・キプレンスキー (1836年没)
- サルヴァトル・ローザ (1673年没)
- フィロメナ (聖人) (304年没)
- ステーノ (1988年没)