伝記
イザベラ・オブ・アングレームは、1188年ごろに生まれ、1246年5月31日に没した、プランタジネット朝のイングランド王ジョンの2度目の妃である。フランス語ではイザベル・ダングレームと呼ばれる。父はアングレーム伯エマール、母はピエール・ド・クルトネーの娘アリックスで、その一人娘だった。1202年に父が没すると、アングレーム女伯となった。
1199年、まだ10歳ほどだった彼女は、獅子心王リチャードの意向で、リュジニャン家のユーグ9世と婚約した。リチャードの死後、ユーグはアキテーヌのエレオノールを捕らえ、新王ジョンから、ラ・マルシュ伯領の叙任を受けた。この縁組が成立すれば、ユーグはアングレーム伯領も手にして、ボルドーとポワティエの間にある広大で戦略的な土地を押さえることになる。ジョンはその危険を見て、フィリップ・オーギュストの助言のもとで、アングレーム伯エマールと密かに話をつけ、イザベラを自分の妃とした。ジョンのねらいは、アングレームを身内に引き入れて、フランス王や、甥のブルターニュ公アルテュールを支持するアンジュー、メーヌなどと、アキテーヌの母の所領との間にくさびを打つことにあった。1200年8月24日に結婚し、イザベラはイングランドで王妃として戴冠した。当時の年代記作者は、ジョンが彼女の美しさに目がくらんで連れ去ったと伝えるが、実際の意図はずっと政治的だったという。
この結婚はフランスで大きな動揺を呼び、リュジニャン家は兄弟や叔父とともに蜂起して、ポワトゥーにあるプランタジネット家の城を攻めた。ジョンは不意を突いてリュジニャン家の領地を奪い、リュジニャン家はフランス王に訴えた。王はジョンを領地没収に当たる罪で裁き、3年に及ぶ戦いのすえ、ジョンはノルマンディーやメーヌ、トゥーレーヌ、アンジュー、そしてポワトゥーを失った。イザベラは5人の子を産み、いずれも成人した。年代記作者は彼女が不貞だったと記し、1205年以降は夫と一緒にいることが少なかった。1214年にはともにポワティエを訪れた。ジョンがようやく彼女の相続地アングレーム伯領を手中にし、コニャックなどを加えたころである。貴族との内戦の間は、王国の西部の比較的安全な場所に置かれた。
1216年にジョンが没し、長男がヘンリー3世として即位した。イザベラは新王の側近から外されたらしく、寡婦産の一部も没収された。彼女は子どもたちをイングランドに置いて、自分の相続地を管理するためフランスへ渡った。3年のうちに領地の支配を取り戻し、夫が置いた管理人を退けた。1220年、かつての婚約者の息子であるラ・マルシュ伯ユーグ10世と再婚した。この結婚でリュジニャン家の所領、ラ・マルシュ、アングーモワが一つにまとまり、ジョンが1200年に恐れたとおりの大領となった。ユーグは直ちに妻の寡婦産を求め、ヘンリー3世はイングランドやノルマンディー、サントやニオールの領地を与えたが、1221年に争いが起き、イングランドの領地は一時没収された。
1241年の暮れには、息子のヘンリー3世と夫ユーグ10世を扇動して、フランス王ルイ9世に反乱を起こしたが、鎮圧された。1246年に没し、遺体はフォントヴロー修道院に葬られた。ジョンとの間には2男3女があり、ヘンリー3世、コーンウォール伯リチャード、スコットランド王妃ジョーン、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の妃イザベラ、エリナーである。ユーグ10世との間には9人の子が生まれた。
同じ年に亡くなった人物
- アラー・ウッディーン・マスウード・シャー (1246年(推定))
- ベレンゲラ (カスティーリャ女王) (1246年没)
- テオドラ・アンゲリナ (1246年)
- フリードリヒ2世 (オーストリア公) (1246年没)
- ルトガルディス (聖人) (1246年没)
同じ地域に関係する人物
- アニェス・ド・ポワティエ (1103-1159) (1159年没)
- ジョゼフ・プルースト (1826年没)
- Nicaise Auguste Desvaux (1856年没)
- トマス・オブ・ランカスター (1421年没)
- アンリ・ド・ラ・ロシュジャクラン (1794年没)