伝記
韓愈は、中国の唐代中期を代表する文人であり、士大夫である。768年に河南府河陽県に生まれ、824年12月25日(長慶4年12月2日)に没した。字は退之、号は昌黎、諡は文公という。官が吏部侍郎に至ったことから「韓吏部」とも呼ばれた。
生い立ちは恵まれなかった。父の韓仲卿を幼いうちに亡くし、日本語版は3歳のとき、英語版は2歳のときとしている。14歳のときには兄の韓会も失い、兄嫁の鄭氏に養われて育った。英語版によれば、一家は774年に長安へ移ったが、罪を得た大臣の元載との関係から777年に南方へ追われ、韓会は781年に広東の地で刺史をしているときに没したという。儒教の書物に学び、792年、四度目の受験で進士に及第した。796年に都で官職を得られなかったため、汴州の節度使に仕え、のちに徐州の節度使にも仕えた。802年に節度使の推薦で初めて中央の官職に就いたが、まもなく左遷された。理由は、皇太子側の派閥を支持しなかったこと、皇帝の側近の不行跡を批判したこと、飢饉の際の減税を求めたことなど、いくつかの説がある。
その後、監察御史、中書舎人、吏部侍郎、京兆尹などの官を歴任した。817年には裴度に従って呉元済の乱の鎮圧に加わった。英語版によれば、この時期の韓愈は、分離傾向のある北東部の諸州に中央の統制を回復させることの強い提唱者であった。818年、30年に一度の開帳に供養すれば利益があるとして信仰を集めていた鳳翔の法門寺の仏舎利が、長安の宮中に迎えられることになった。韓愈は翌819年、『論仏骨表』を憲宗に奉って強く諫めた。崇仏の皇帝であった憲宗の怒りに触れ、潮州刺史に左遷された。英語版によれば、皇帝は処刑を命じたが、宮廷の友人たちに救われて左遷にとどまったという。数か月後に皇帝へ詫びを入れ、都に近い州へ移されたとされる。
820年に憲宗が崩御して穆宗が即位すると、再び召されて国子監祭酒に任じられ、その後は、反抗する軍の指揮官を説得して帰順させる任務を果たして高い官職に任じられたとされ、兵部侍郎・吏部侍郎を歴任した。824年に亡くなり、礼部尚書を追贈された。英語版によれば、56歳で長安に没し、翌825年に河陽の祖先の墓地に葬られた。
文章では、六朝以来の主流であった四六駢儷文が修辞に傾くことを批判し、秦漢以前の文を手本とする、意を尽くした文体を唱えた。これが古文復興運動である。唐宋八大家の第一に数えられ、運動に共鳴した柳宗元とは「韓柳」と並び称される。この運動は、思想の土台である儒教の復興と表裏をなすもので、「原人」「原道」「原性」などの文章が残る。排仏論も、仏教の傾向を斥けて儒教の地位を取り戻そうとする姿勢から出たもので、その傾向は高弟の李翺が受け継いだ。英語版によれば、道教にも批判的で、「原道」では仏教と道教の出家の制度が経済的に生産を生まず、社会に混乱をもたらすと論じた。また「師説」で、道を体現する師の役割を説いている。詩人としては、新奇な語句を多用する難解な詩風で、平易な詩風の白居易に対抗する一派をなし、孟郊・張籍・李賀・賈島らの「韓門の弟子」を輩出した。より有名なのは散文の作家としてで、近い過去千年の中国散文の始祖ともされる。文集に『韓昌黎集』40巻と『外集』10巻がある。
同じ年に亡くなった人物
- ナフィーサ・ビントル・ハサン (824年)
- 穆宗 (唐) (824年没)
- パスカリス1世 (ローマ教皇) (824年没)
- 平城天皇 (824年没)