HISTORICAL PERSON · 1250年没

フリードリヒ2世 (神聖ローマ皇帝)

シチリア王で、シュタウフェン朝で最後の神聖ローマ皇帝。第6回十字軍でエルサレム王として戴冠した。イタリアを本拠とする進歩的な君主で、学問と芸術を好んだ。

生涯
1250年没
死亡地
イタリア共和国(フォッジャ県 / Castel Fiorentino)
出生地
イタリア共和国(イェージ)
出典
世界地図
イタリア共和国(フォッジャ県)

伝記

フリードリヒ2世は、一一九四年十二月二十六日にイタリア中部の町イェージで、皇帝ハインリヒ6世とシチリア王女コスタンツァの子として生まれ、一二五〇年十二月十三日に没した、シュタウフェン朝を通して第三代にして最後となる神聖ローマ皇帝である。シチリア王としてはフェデリーコ1世にあたる。生後三か月でアッシジで洗礼を受け、父方の祖父フリードリヒ1世と母方の祖父ルッジェーロ2世の両方にちなむ名を与えられた。一一九七年に父が遠征中に病没すると、摂政となった母は教皇インノケンティウス3世を頼り、一一九八年五月に彼はシチリア王位を戴冠した。同年十一月に母も没し、孤児となって教皇の後見を受けた。

シチリアはイスラム、ビザンティン、ラテンの文化が融合した土地で、四歳のフリードリヒはすでにラテン語を習得し、歴史や哲学の書を読み始めていたという。幼少期は周囲の党派に翻弄され、一二〇二年から一二〇六年の間にはマルクヴァルトの人質にもされ、パレルモの市民から食糧を分けてもらうほど窮したと伝わる。ラテン語、ギリシア語、アラビア語など六つの言語を身につけ、科学に強い関心を示し、馬術や槍術にも秀でた。一二〇九年には十歳年上のアラゴン王女コスタンツァと婚約し、プロヴァンス詩と洗練された宮廷生活を教わった。

北の帝国ではシュヴァーベン公フィリップとヴェルフ家のオットーの派閥が争い、フィリップの暗殺後、オットーが皇帝となった。しかしオットーが教皇領とシチリアに侵攻して破門されると、一二一一年に諸侯はニュルンベルクでオットーの廃位とフリードリヒの選出を決めた。彼は教皇の宗主権の再確認などの条件を受け入れて、一二一二年にアルプスを越え、十二月九日にマインツで戴冠した。一二一四年のブーヴィーヌの戦いでオットーの没落は決定的になり、一二一五年にアーヘンで正式に戴冠して、十字軍の遠征を誓った。ドイツでは諸侯の特権を承認して支持を集め、一二二〇年に息子ハインリヒを共同統治者に据え、パレルモに戻った。同年十一月二十二日に皇帝として戴冠している。シチリアでは逆に強権的な統治を行い、貴族の城砦を破壊して直轄の城を築き、一二二四年にはナポリ大学を創立した。また、山賊行為をしていたイスラム教徒を討伐し、捕らえた者を新設の都市ルチェーラに移して自治を許したところ、彼らは後に皇帝の指揮下で教皇派と戦ったという。

一二二五年十一月、彼はエルサレム王ジャン・ド・ブリエンヌの娘ヨランドと再婚し、王位に関する権利を譲らせたが、十字軍の実行は遅れた。一二二七年にホノリウス3世が没しても遠征は実現せず、教皇グレゴリウス9世は破門をちらつかせ、一二二八年に出発した軍は疫病が流行し、フリードリヒも病に罹って引き返した。教皇は仮病と判断して彼を破門した。それでも彼は再び聖地に向かい、イスラム教徒の君主アル・カーミルと書簡で学識を交わし、一二二九年二月にヤッファ条約を結んで、血を流さずに十年間の期限付きでエルサレムを取り戻した。三月十八日に聖墳墓教会で自ら王冠をかぶったが、現地の反応は冷淡だった。一二三〇年のサン・ジェルマノの和約で破門は解かれ、一二三一年にはメルフィの会議で『皇帝の書』を発布した。

スイスの歴史家ブルクハルトは彼を、玉座に位した最初の近代的人間と評した。一方で教皇庁や北イタリア諸都市と争い、統一の悲願を果たせず没し、帝国は約六十年の大空位時代を迎えた。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物