伝記
ガイウス・ノルバヌスは、紀元前1世紀初期の共和政ローマの政治家・軍人である。紀元前83年に執政官(コンスル)を務めた。没年は紀元前82年または81年とされる。名はウォルスキの街ノルバに由来するとする説と、エトルリア起源とする説がある。いずれにせよ彼は「新市民」であり、非ラテン系の名で執政官となった人物としてはマルクス・ペルペルナに次いで二人目であった。
新市民であるがゆえに、ノルバヌスは新貴族(ノビレス)の抵抗を受け、そのことが民衆派(ポプラレス)になった主な理由と思われる。記録に初めて現れるのは紀元前103年で、護民官として同僚のサトゥルニヌスの同盟者であった。この年、彼は紀元前106年の執政官で元老院に影響力のあった貴族クィントゥス・セルウィリウス・カエピオを、紀元前105年にアラウシオの戦いでゲルマン人に大敗した責任を口実に告訴した。根拠は、サトゥルニヌスが成立させたローマの権威を傷つけることを罪とするアップレイウス法である。裁判は荒れ、カエピオを弁護した元老院筆頭のスカウルスは石を投げられて負傷し、拒否権を行使しようとした同僚の護民官二人も議場から排除された。カエピオは有罪となり、追放されて全財産を競売にかけられた。
この勝利は大成功であり、同年末の選挙でノルバヌスは財務官(クァエストル)に選ばれ、出世の道に乗った。彼はキリキアの海賊と戦う法務官マルクス・アントニウス・オラトルに同行して東へ向かった。後に、カエピオの息子がノルバヌスを告訴した。原告側の弁護人は若い弁論家プブリウス・スルキピウスで、カエピオ父の裁判でノルバヌスが同僚護民官の拒否権を暴力で阻んだことを訴え、スカウルスも不利な証言をした。ところが、かつての上官オラトルが、自分の子の一人として弁護すると述べてノルバヌスを弁護し、人々を驚かせた。オラトルはスカウルスの証言にも反論し、無罪を勝ち取った。その後ノルバヌスは経歴を再開し、紀元前88年または前87年に法務官となってシキリア属州の総督を務めた。キケロは彼を嫌ったが、良い総督だったことは認めている。また、イタリック人がレギウムを包囲した際には、大軍を見せつけて恐れさせ、街を救ったという。
紀元前84年、カルボは翌年の執政官に、妥協できる人物として名門貴族のスキピオ・アシアティクスと、新市民の代表であるノルバヌスを選んだ。ノルバヌスはこのとき60歳前後だった。紀元前83年5月、スッラがイタリアに上陸して内戦が始まった。スッラの兵が3〜4万だったのに対し、二人の執政官は合計18〜20万を率いていたが、理由は不明ながら別々に動き、海岸の防衛も怠った。ノルバヌスはカプア近郊でスッラを待ち構えたが、ティファタ山の戦いで敗れてカプアに退いた。その後、スキピオの兵がスッラ側に寝返った。翌年は前執政官として北イタリアを担当したが、ファウェンティアの戦いでメテッルス・ピウスに大敗し、数千の兵とともにアリミヌムに籠城した。同地の指揮官アルビオノウァスは幹部を晩餐に招いて殺害しスッラ派に加わったが、ノルバヌスは晩餐に行かず生き残り、ロードス島に逃れた。
スッラは国家の敵のリストにノルバヌスらの名を挙げた。ロードス政府が引き渡しを要求されると、これを知ったノルバヌスは街の広場で自決した。既に拘束されていたが自決できたとする別の説もある。同名の息子がおり、その子が紀元前38年の執政官ガイウス・ノルバヌス・フラックスである。キケロは彼を「反抗的で冷酷」「何の役にも立たない反逆者」「優柔不断で勇気が欠如している」と辛辣に評した。
同じ年に亡くなった人物
- ゴタルゼス1世 (紀元前 80年(推定))
- ミトラダテス2世 (紀元前80年代没)
- オボダス1世 (紀元前80)
- フィリッポス1世フィラデルフォス (紀元前80年代没)
同じ地域に関係する人物
- Hecato of Rhodes (紀元前160)
- ロドスのティモクラテス (紀元前400)
- ジュゼッペ・ラッディ (1829年没)
- カイ・フランク (1989年没)
- アルキロコス (紀元前640年代没)