伝記
バイジュは、13世紀の中ごろに活躍したモンゴル帝国の将軍である。バイジュ・ノヤンと呼ばれ、漢文の史料では拝住と記される。モンゴル部の一派ベスト氏族の出身で、ジェベと同族だという。
1228年、トルイが監国を務めていたとき、皇子オゴデイとの協議により、チョルマグンを司令官とする鎮戍軍をイランへ送ることが決まった。ホラズム・シャー朝のジャラールッディーンがインドからイラン高原へ戻ったとの知らせを受けたためである。1229年にオゴデイが第2代皇帝になると、チョルマグンに四つの万戸隊が与えられ、軍はこの年にアムダリヤ川を渡ってイランに入った。バイジュは初めチョルマグンの下の千戸長で、のちに四つの万戸隊のうち第1万戸隊の万戸長になった。1241年の初め、口がきけなくなったチョルマグンに代わり、バイジュが後任となったとされる。1243年、バイジュは軍を直接率いてキョセ・ダグの戦いでルーム・セルジューク朝のカイホスロー2世の軍を破った。これによりルームはモンゴルに降服して臣従し、周辺のグルジア王国やキリキア・アルメニア王国も従った。
1247年初夏、バイジュが大アルメニアのスィスィアンに陣を置いていたとき、ローマ教皇インノケンティウス4世の書簡を携えて、ドミニコ会士アンセルムスらの使節が到着した。使節は教皇の優越性を説いてモンゴルを見下す態度をとり、モンゴルの作法である贈り物の献上と3度の跪拝も拒んだ。バイジュは立腹して面会を拒み、使節は9週間も留め置かれた。同行したサンカタンのシモンによれば、バイジュは3度、使節の殺害を命じたという。使節は返書だけを渡されて追い返された。返書でバイジュは、このような口をきけと教皇が命じたのか、それとも使節の独断かと問うていた。このころ、イランの指揮権はグユクの近臣イルチギタイに任され、バイジュは一時指揮権を失ったようである。1251年にモンケが即位すると、イルチギタイは暗殺計画に加わったとして処刑され、バイジュは指揮権を取り戻した。
1256年にフレグの西征軍がアムダリヤ川を渡ったとき、バイジュはルームにいて、出迎えには加わらなかった。1257年3月末、カズヴィーン近郊でフレグに会った。フレグは、チョルマグン以来の征服が遅いためにバグダードのカリフの権威をかえって高めたと、彼の怠慢を叱った。バイジュは、都市の人口と軍備が多く、道は険しい山道で、人員と兵站も足りなかったと釈明した。フレグは怒りを和らげ、バグダード攻めと、予定されるフランスやイングランドなどヨーロッパ遠征への従軍を命じた。バグダードの戦いでバイジュは右翼軍に配され、1258年1月23日、ブカ・テムル、スンジャクとともに先鋒として最初にチグリス川を渡り、西岸で戦った。
1259年9月19日、フレグがシリア遠征に出ると、バイジュは右翼軍に入った。このあたりを境に、バイジュの動向は伝わらなくなる。バイジュはルームでの戦功を誇り、「私こそがルームを服従させたのだ」と吹聴していたため、フレグに召喚され、ヤサの規定により有罪として処刑されたという。財産の半分は没収され、万戸隊はチョルマグンの子シレムンが支配し、息子アダクは千戸隊を預かった。アダクはのちに万戸長となり、バグダード包囲とベルケとの戦いにも加わった。
同じ年に亡くなった人物
- クリストファ1世 (デンマーク王) (1259年没)
- トンマーゾ2世・ディ・サヴォイア (1259年没)
- マティルド・ド・ダンマルタン (1259年没)
- エッチェリーノ3世・ダ・ロマーノ (1259年没)
- マシュー・パリス (1259年)