伝記
ボルテ・ウジンは、1151年とも1161年ともいわれる年に生まれた、モンゴル帝国の始祖チンギス・カンの第一皇后で、第一オルドの主である。没した年は分かっていない。コンギラト部族のボスクル氏族の出身で、名の「ボルテ」は、モンゴル族の始祖である「蒼い狼」のボルテと同じく、「蒼い」「灰青色」を意味し、「ウジン」は夫人に由来する、王族の正妃の尊称である。父はボスクル氏族長のデイ・セチェン、母はチョタンである。1171年、イェスゲイ・バアトルは、9歳になった長男テムジンの嫁を探すため、母方の部族のもとへ向かった。途中でデイ・セチェンに会い、デイ・セチェンはテムジンを見て「この子は目に火あり、面に光ある子供ですね」と言い、10歳の娘ボルテを引き合わせた。イェスゲイはボルテをすぐに気に入り、翌日には縁談をもちかけた。デイ・セチェンは、条件としてテムジンをしばらく預かると求め、イェスゲイはそのとおりにした。しかしイェスゲイは帰り道にタタル部族に毒を盛られて死に、モンリクはイェスゲイの遺言どおりテムジンを連れ戻して、ボルテとテムジンは離ればなれになった。別の伝えでは、テムジンが何度も結婚を拒まれ、仲のよかったボルテの弟アルチの尽力で、ようやく許されたともいう。若いころのテムジンの勢力は弱く、苦労したことが知られており、こちらの方が史実に近いと考えられている。
その後、テムジン一家はモンゴル部族から追放され、苦しい日々を送った。テムジンが18歳ごろ、弟ベルグテイを連れて、久しぶりにボルテに会いに行くと、デイ・セチェンは成長したテムジンを見て非常に喜び、二人を結婚させて送り出した。1180年ごろ、テムジンがタタル族を略奪したとき、まだ子供がなく、ボルテは子供を欲しがっていた。テムジンは道に捨てられていた子供をボルテのもとへ連れて行き、ボルテは実の息子のようにそばで大事に育てた。のちにシギ・クトクと呼ばれたこの子は、チンギス・カンを「父」、ボルテを「ベリゲン・エケ」と呼んだ。
テムジン一家がブルギ河岸にいたとき、メルキト部族の襲撃を受け、ボルテと家政婦のゴアクチン婆やが連れ去られた。テムジンは同盟者のケレイト部族のトオリル・カンに助けを求め、ジャムカも加わって、ボルテ救出の作戦が行われた。夜襲でメルキトの部族長トクトア・ベキを取り逃がしたが、カアダイ・ダルマラを捕らえ、ボルテと婆やを無事に取り戻した。のちにテムジンとジャムカに亀裂が生じ、ジャムカが謎めいた言葉を残して別れを告げた。その意味を母ホエルンに聞きに行ったとき、ボルテはすぐに、ジャムカは飽きっぽい人で、いまは私たちに飽きるときになったのだから、夜通しでも移営して別れましょうと進言した。
1206年、テムジンはクリルタイを開いてチンギス・カンに即位し、大モンゴル国を建てた。この会議で即位を建議した巫者ココチュ(テプ・テングリ)ら七人の兄弟は、そのあと権勢をふるい、チンギス・カンの弟ジョチ・カサルを鞭打ち、テムゲ・オッチギンの領民を奪うなど、傍若無人な振る舞いをした。チンギス・カンが何も対処しなかったため、母ホエルンとボルテは、彼を強く叱り、弟たちの受けた屈辱に涙したという。そこでチンギス・カンは、宴席でココチュを殺すことに決め、テムゲが相撲を取るふりをして、彼の背骨を折って殺した。クビライは、1266年10月に「光献皇后」の諡号を贈り、1309年12月には「翼聖」を加えて「光献翼聖皇后」とした。夫とのあいだには、長男ジョチ、次男チャガタイ、三男オゴデイ、四男トルイと、5人の娘がいた。
同じ年に亡くなった人物
- レオポルト6世 (オーストリア公) (1230年没)
- ペラージオ・ガルバーニ (1230年)
- アイケ・フォン・レプゴー (1230年代没)
- アダ (ホラント女伯) (1230年代没)
- ペロティヌス (1230年)
同じ地域に関係する人物
- オゴデイ (1241年没)
- ソルコクタニ・ベキ (1252年没)
- 林彪 (1971年没)
- 葉群 (1971年没)
- バイジュ (モンゴル部) (1259年没)