伝記
アリクブケは、モンゴル帝国の第5代皇帝(カアン)を名乗って兄クビライと争った人物である。チンギス・カンの四男トルイと、ケレイト族出身の正室ソルコクタニ・ベキとの間の四男で、末子にあたる。1232年10月に父トルイが亡くなると、末子相続によってそのウルスを継いだが、まだ幼かったため、実際にウルスをまとめて多くの部族を統制したのは母ソルコクタニであった。1251年に兄モンケがカアンに即位し、1252年2月には母が亡くなった。母は晩年、彼とともにアルタイ山脈付近に住んでいた。1257年、モンケは南宋の征伐に自ら出るにあたり、首都カラコルムの政府をアリクブケに任せ、将軍アラムダールをその副官とした。
1259年8月、モンケは合州の包囲中に病にかかり、12日後に釣魚山の付近で亡くなった。すると、燕都の長官ドルジとアラムダールが、アリクブケを帝位につけようとカラコルムに軍を集め始めた。クビライは鄂州を囲んでいたが、アリクブケが帝位を奪おうとしていると知ると、南宋の和平案を受け入れて包囲を解き、北へ向かった。1260年1月、クビライは燕都の城壁のもとからアリクブケに、なぜ人馬や金銀を徴発したのかと問いただした。アリクブケは、モンケの葬儀のためのクリルタイにクビライらを呼ぶ準備だったと弁解した。同じ年の4月、クビライは開平府で諸王や諸将とクリルタイを開き、6月にはフレグらを呼ばないまま満場一致でクビライをカアンとした。これに対してアリクブケも、陝西方面の諸将や、モンケの正妃、諸皇子、チャガタイ家らに推されてカアンの称号をとって即位した。
両者は使者を交わしたが折り合わず、秋にアリクブケは軍を進めたが、クビライ軍の前衛に敗れ、軍は崩れた。彼は抑留していた百人の使者を殺し、二人の息子とともにキルギスの地方へ退いた。クビライはカラコルムに進み、華北からの食糧の供給を断った。食糧不足に悩んだアリクブケは、チャガタイ家のアルグをチャガタイ・ウルスのカンにする条件で、武器と食糧の調達を任せた。1261年、アリクブケは軍馬を休ませたのち、降伏の意思を伝えて相手を油断させ、クビライの残した軍に襲いかかり、ゴビ砂漠を越えて進んだ。両軍はシムルトゥ・ノールで戦い、アリクブケは大敗して逃げた。
1262年、物資が尽きたアリクブケがアルグのもとへ使者を送って家畜や兵器、金銀を徴発させると、あまりの多さにアルグは不服とし、使者3人を殺してクビライを承認した。アリクブケは進軍するが、その間にクビライがカラコルムに入り、住民は降伏した。アリクブケはアルマリクに冬営してアルグの領土を掠奪し、捕らえた軍をことごとく殺した。この野蛮な行為は彼にとって致命的となったとされる。翌1263年春、アルマリクは恐ろしい飢饉に襲われて多くの死者が出て、将校たちの大半は彼の非人道的な行為に憤り、離反してクビライ軍に投降した。
1264年、軍も財源も尽きたアリクブケは、クビライに投降する決意をした。クビライの宮殿の門に着くと、クビライは軍を整列させ、アリクブケは慣例に従って平伏した。内部に入ると、クビライは長いあいだ彼を見つめ、アリクブケが涙を流しているのを見て、自らも涙をこらえられなかった。クビライが「弟よ、この争いでどちらが正当だったか」と問うと、アリクブケは「以前は私が正当でしたが、今は陛下の方です」と答えた。翌日、将校たちは鎖につながれ、四人の王侯と三人の将軍の委員会が設けられて審問が行われ、アリクブケは企てはすべて自分一人の罪であり、将校たちに罪はないと述べた。彼は1266年に亡くなった。
同じ年に亡くなった人物
- ウード (ヌヴェール伯) (1266年没)
- Rogerius of Apulia (1266年没)
- シフィエントペウク2世 (1266年没)
- シバン (ジョチ・ウルス) (1266年没)
- マンフレーディ (1266年没)
同じ地域に関係する人物
- ボルテ (1230年代没)
- オゴデイ (1241年没)
- バイジュ (モンゴル部) (1259年没)
- 葉群 (1971年没)
- ソルコクタニ・ベキ (1252年没)