伝記
ニコライ・アレクセーエヴィチ・オストロフスキーは、1904年9月29日(ユリウス暦9月16日)、ロシア帝国ヴォルィーニ県のヴィリヤ村、現在のウクライナ北西部リウネ州に生まれたソビエト連邦の作家である。貧しい労働者の家庭の五番目の子で、父は軍の下士官であり、税官吏でもあった。村の教会付属の学校には並外れた才能のために通例より早く入学し、1913年に9歳で卒業した。まもなく家族で鉄道の要地シェペトフカに移り住んだ。1916年からは駅の食堂の厨房や資材倉庫、発電所の火夫見習いなど、さまざまな職に就きながら学校にも通い、1917年にはボリシェヴィキの活動家となった。公式の伝記によれば、1918年春にドイツ軍が故郷に入ると、地下組織の使い走りもしたという。
1919年7月20日に赤軍へ志願し、8月9日にはコムソモールに入団した。騎兵旅団などに所属したが、リヴォフで背中に榴散弾による重傷を負い、1920年8月に復員した。この軍歴は、彼の自伝では触れられていない。1920年から1921年にかけてチェーカーの一員だったとする情報もある。1921年にはキエフで技師見習いとして電気工学を学びながら、コムソモールの秘書を務め、翌年にチフスを患っても体調不良をおして鉄道の敷設工事に加わった。回復後はポーランドとの国境地帯で政治将校大隊に所属し、ベレズディウとイジャスラウの地域委員会の秘書となって、1924年に共産党に入党した。その後手足を奪うことになる病は、早い時期から出ていたとみられる。最終的に「進行性強直性関節炎」などと診断されたが、現代の医学では遺伝性の強直性脊椎炎と推測されており、病名は強直性脊椎炎とも多発性硬化症ともいわれて一定しない。
1925年から体調が急激に悪化し、1926年の暮れには寝たきりになった。翌年8月にはチフスの合併症で視力を失ったが、直後にスヴェルドロフ名称共産大学の通信制に入学し、2年で修了した。1927年の秋に自伝的小説の執筆を始めたが、半年後、原稿は輸送事故で失われた。目が見えないまま、行を区切る枠(ステンシル)を考案して書き進め、長編『鋼鉄はいかに鍛えられたか』の執筆にかかった。雑誌『青年前衛』には「作風にリアリティがない」と酷評されたが、原稿は二次審査を通過し、副編集長のマルク・コロソフらの手で編集されて、1932年4月に第1部が、11月に第2部が書籍化された。この本は、ソ連じゅうでたちまちベストセラーとなり、のち3度映画化された。
1932年にロシア・プロレタリア作家協会のモスクワ支部に、1934年にはソビエト連邦作家同盟に加入した。1935年にレーニン勲章を受け、ソチに邸宅を、モスクワのゴーリキー通りにアパートを与えられ、自宅に詰めかける読者や作家たちに囲まれた。アンドレ・ジッドは彼と面会し、『ソヴィエト紀行』のなかで、オストロフスキーはソ連の体制に批判的であったと述べている。新作としてロシア内戦下のウクライナを描く三部作『嵐に生まれ出るもの』の第1部を書いたが、本人は納得していなかった。1936年12月22日、32歳で病苦のなかに亡くなり、モスクワのノヴォデヴィチ墓地に葬られた。葬儀には急ぎ刷り上げられた『嵐に生まれ出るもの』が捧げられた。
同じ年に亡くなった人物
- マクシム・ゴーリキー (1936年没)
- エレフテリオス・ヴェニゼロス (1936年没)
- ミゲル・デ・ウナムーノ (1936年没)
- チャールズ・カーティス (1936年没)
- レフ・カーメネフ (1936年没)
同じ地域に関係する人物
- ジガ・ヴェルトフ (1954年没)
- ヴラジーミル・ミハーイロヴィチ・ミャスィーシチェフ (1978年没)
- パーヴェル・ベリャーエフ (1970年没)
- ワレリアン・ゾリン (1986年没)
- セルゲイ・メルクーロフ (1952年没)