伝記
インノケンティウス5世は、一二七六年に在位したローマ教皇で、本名をピエール・ド・タランテーズという。一二二五年ごろ、サヴォイア伯領のタランテーズ地方、ムーティエ近郊で生まれたとされる。イタリア北西部アオスタ渓谷のラ・サッレで生まれたとする有力な説や、ブルゴーニュ、あるいはロワール県のタランテーズ出身とする説もあり、生地は定まっていない。史上初めてドミニコ会の出身者として教皇の座に就いた人物である。
若くしてドミニコ会に入り、十六歳のときとも、一二四〇年ごろリヨンの修道院に入ったともいわれる。一二五五年の夏にはパリのサン・ジャック修道院の学院に移り、神学の修士の資格を得て、説教者として名を上げた。トマス・アクィナス、アルベルトゥス・マグヌス、ボナヴェントゥラのもとで神学を学んだとされ、一二五九年にはパリ大学神学部で修士となって教壇に立った。同じ年、ヴァランシエンヌで開かれたドミニコ会の総会に出席し、アルベルトゥスやトマスとともに、修道会全体の学習計画づくりにかかわったとされる。この計画は、神学を学ぶ前の準備として哲学の学習を位置づけ、ドミニコ会のスコラ哲学の伝統を築いたという。一二五九年から一二六四年まで、二つあるドミニコ会の講座の一つを担当した。
一二六四年には、彼の『命題集』注解の百八の主張が異端として告発される出来事があったが、総長ジョヴァンニ・ダ・ヴェルチェッリはトマスに弁護を書かせた。ピエールの声望は高く、すぐにフランス管区長に選ばれた。管区長への選出は一二六二年ともいわれ、一二六四年から三年間務め、さらに一二六九年に再選されたともいわれるなど、時期は一定しない。一二七二年六月には教皇グレゴリウス10世からリヨン大司教に任じられたが、叙階されなかったといわれる。翌一二七三年にオスティアの司教枢機卿となった。一二七四年の第二リヨン公会議で説教を行い、同年に没したボナヴェントゥラの葬儀でも説教を行った。
一二七六年一月十日にグレゴリウス10世がアレッツォで没すると、同地でコンクラーヴェが開かれ、一月二十一日に枢機卿たちの全会一致で教皇に選ばれた。シチリア王シャルル・ダンジューの影響力が背景にあったとされる。ただちにローマへ向かい、二月二十二日に到着して、二十五日に戴冠した。
教皇としては、前任者が採ったシャルルの影響力を削ぐための親ドイツ政策を改め、三月二日にはシャルルにローマの元老院議員の名誉職やトスカーナにおける教皇代理の地位を与えた。ドイツ王ルドルフ1世の皇帝戴冠を目的とするローマ遠征の延期も求めた。一方、十字軍を実現するためにヨーロッパの平和をはかる方針は続け、ピサとルッカの講和を実現し、ジェノヴァとシャルルのあいだの和平にも尽力したとされる。東ローマ帝国への対応については、シャルルがコンスタンティノープルの再占領をねらうなか、皇帝ミカエル8世には低姿勢だった一方、東方教会の聖職者には「フィリオクェ」を認める宣誓を強く求めたため、後世の研究者から「不適切」と評された。教皇が白い平服を着る慣習は、この教皇が始めたとも、同じドミニコ会出身のピウス5世が始めたともいわれる。就任からわずか半年後の六月二十二日にローマで没し、ラテラノ大聖堂に葬られ、後任にはハドリアヌス5世が選ばれた。一八九八年、レオ13世により列福された。
同じ年に亡くなった人物
- グレゴリウス10世 (ローマ教皇) (1276年没)
- ヴァルラム2世 (1276年没)
- ハドリアヌス5世 (ローマ教皇) (1276年没)
- ハイメ1世 (アラゴン王) (1276年没)
- ヴァシーリー・ヤロスラヴィチ (ウラジーミル大公) (1276年没)
同じ地域に関係する人物
- エンリコ・ガッツォーニ (1949年没)
- グナエウス・オクタウィウス (紀元前87年の執政官) (紀元前87年没)
- クレメンス7世 (ローマ教皇) (1534年没)
- ラファエロ・サンティ (1520年没)
- マッシモ・ジロッティ (2003年没)