伝記
ジャンヌ・ド・ダンマルタンは、フランスのオマール女伯、ポンチュー女伯であり、カスティーリャ・レオン王フェルナンド3世の妃となった女性である。1220年ごろに、オマール伯シモン・ド・ダンマルタンと、ポンチュー女伯マリーの長女として生まれた。母方の祖母はフランス王女アデルである。カスティーリャでは、フアナ・デ・ダンマルティンの名で呼ばれた。
1230年ごろ、父シモンはフランス王ルイ9世との婚約を整えたが、のちにルイ側によって破棄された。1234年には秘密の交渉の末、イングランド王ヘンリー3世との結婚が決まりかけた。ポンチューはノルマンディーに接し、オマールはノルマンディー内にあったため、フランス側にとってこの縁組は受け入れがたかった。シモンはかつて王に反抗する北部貴族の陰謀に関わった際、王の許しなく上の二人の娘を嫁がせないと約束していた。1235年、摂政の王母ブランシュ・ド・カスティーユがこの約束を持ち出し、結婚すれば領地をすべて奪うと脅した。ブランシュは教皇にも近親を理由に婚姻の許可を拒むよう求め、ヘンリー3世は計画を諦めた。
同じ1235年11月にフェルナンド3世が妃に先立たれると、母のベレンガリアは息子の再婚相手を探した。ベレンガリアの妹ブランシュがジャンヌを勧め、この結婚が実現すれば彼女の相続地が敵の手に渡らずに済むと考えられた。1237年8月31日に教皇の許可が出て、同年10月、17歳ほどのジャンヌはブルゴスでフェルナンド3世と結婚した。婚姻契約では、ポンチュー伯領はカスティーリャに吸収されずフランスにとどまるとされた。二人の間には五人の子が生まれた。1238年にフェルナンドが、1241年にレオノールが生まれ、ほかにルイスがいたが、ヒメノとフアンは1244年に没した。ジャンヌは夫に従ってアンダルシアへ赴き、1248年にセビリアを包囲する軍の陣営で夫と暮らした。1247年末か1248年初めには、夫からカルモナの領主権を個人として与えられ、同年5月には、カルモナの土地と家をカラトラバ騎士団に寄進した。
1251年に母が亡くなると、ジャンヌはポンチュー女伯とモントルイユ女伯の地位を継いだとされる。1252年に夫が死去すると、継子のアルフォンソ10世とは相続した土地や収入をめぐって対立し、ジャンヌは引退して自分の領地に戻った。1254年ごろ、ファルヴィーおよびラ・エレルの領主ジャン・ド・ネールと再婚し、ギーとイドの二人の子をもうけた。同じ1254年には娘のレオノールが、のちのイングランド王エドワード1世と結婚している。
1259年に従姉であるブローニュ女伯でダンマルタン女伯のマティルド・ド・ダンマルタンが死ぬと、ジャンヌはブローニュ伯領の相続をねらった。しかしパリ高等法院は1262年の裁定で、ブローニュ伯領をアデライード・ド・ブラバンに、ダンマルタン伯領をル・ヴォーマン領主マチュー・ド・トリに相続させた。長男のフェルナンドは1264年に亡くなった。ジャンヌは1279年3月16日にアブヴィルで死去した。ポンチューは娘のレオノールが継ぎ、オマールは孫のジャンが継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- アフォンソ3世 (ポルトガル王) (1279年没)
- ボレスワフ・ポボジュヌィ (1279年没)
- ボレスワフ5世 (1279年没)
- ウルリヒ2世 (1279年)
- 陸秀夫 (1279年没)
同じ地域に関係する人物
- Arnaud Coyot (2013年没)
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- アンヌ・ド・ピスルー・デイリー (1580年没)
- ルドヴィーコ・ゴンザーガ=ネヴェルス (1595年没)
- シャルル3世 (西フランク王) (929年没)