伝記
ザカリーヤー・イブン・ムハンマド・アルカズウィーニーは、ザカリーヤー・カズウィーニーの名でも知られる、1203年に生まれ、1283年に没したペルシア人の法学者、宇宙構造論学者、地理学者である。博物誌『被造物の驚異と万物の珍奇』と、地理書『諸国の遺跡と信者の情報』という、「宇宙誌」と呼ばれる2冊の書を編纂、執筆したことで知られる。この呼び名は、両書を編集してドイツで出版した19世紀の東洋学者が、二書を合わせて名づけたものである。
カズウィーニーは、その名のニスバが示すとおり、現在のイランにあるカズウィーンで13世紀の初頭に生まれた。一族は古くからカズウィーンに定住していた法学者の家系で、祖先は有名な教友アナス・イブン・マーリクの系譜でアラブに起源を持つとする説もある。1220年、16歳か17歳のとき、チンギス・ハンが率いたモンゴルの遠征がカズウィーンに及ぶと、西方のモースルへ逃れた。それ以前に法学の教育を受けていたという。モースルでは法学や哲学を中心に、地理学、天文学、地質学、植物学、動物学などを学び、哲学者のアスィールッディーン・アブハリーや歴史家のイブン・アスィールらに教えを受けたとされる。シリアではスーフィーの学者イブン・アラビーを訪ねたともいわれる。
モースルでおよそ20年を学んで過ごしたのち、バグダード近くの都市ワースィトに移った。ワースィトではマドラサで教え、最後のアッバース朝カリフであるムスタアスィムのもとで、裁判官の長を務めた。1258年、フレグ・ハンに率いられたモンゴルがバグダード攻囲の際にワースィトを襲い、アッバース朝は滅んでイルハン朝が成立したが、カズウィーニーはその後も裁判官と教師の務めを続けた。ワースィトのほか、ヒッラなどイラクとペルシアのいくつかの都市で裁判官を務めている。
裁判官の活動を辞めたのちは、知識の蒐集と学問の習得に励み、メソポタミアやシリアなども旅した。やがて、イルハン朝のバグダード太守アターマリク・ジュワイニーの庇護下に入り、博物誌『被造物の驚異と万物の珍奇』はジュワイニーに献じられた。主な著作はこの時期に書かれたとされる。
『被造物の驚異と万物の珍奇』は、12世紀にアフマド・トゥースィーが著した同名の書と共通の枠組みを用い、その影響を大きく受けているが、知識の体系化と網羅性はカズウィーニーの書のほうが徹底している。あらゆる自然現象や森羅万象を、称えるべき神の御業とみなす信仰心が編纂の動機であった。専門家ではなく広い読者に向け、諸文献の記述を取捨選択し、矛盾を排して整理した。書は天界を扱う部分と地上を扱う部分の二つの宇宙誌からなり、前者は天空や天使、後者は植物や生き物などを論じる。豊富な挿絵を備えた多くの写本が作られ、アラビア語の原典はペルシア語やトルコ語にも訳された。地理書『諸国の遺跡と信者の情報』は1262年から1263年にかけて書かれ、1275年か1276年に改訂されたとされる。こちらは三つの序文で人口の増加、都市の特徴、気候帯への分け方を論じ、残りを経度と緯度の順に整理しており、ヤァクービーやイブン・ファキーフら先人の地理学者の仕事も取り入れている。記述は具体的だが、通常、写本に挿絵は付されていない。
同じ年に亡くなった人物
- アラーウッディーン・アターマリク・ジュヴァイニー (1283年没)
- ブランシュ・ド・ナヴァール (1226-1283) (1283年没)
- マーガレット・オブ・スコットランド (ノルウェー王妃) (1283年没)
- 文天祥 (1283年没)
- ダフィズ・アプ・グリフィズ (1283年)
同じ地域に関係する人物
- アブドルカリーム・カーシム (1963年没)
- ムーサー・カーズィム (799年没)
- アッ=シャリーフ・アッ=ラディー (1016年没)
- Maruf Karkhi (815年没)
- アブドゥル=イラーフ (1958年没)