HISTORICAL PERSON · 紀元前45年没

ニギディウス・フィグルス

前58年に法務官を務めたキケロの友人で、ウァロに次ぐ学者と評された。ピタゴラス主義とストア派を結び、文法や占星術、宗教の膨大な著作を残したが断片のみ現存する。ポンペイウス側に付き、追放中に没した。

生涯
紀元前45年没
死亡地
—
出生地
イタリア共和国(ローマ県 / 古代ローマ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

プブリウス・ニギディウス・フィグルスは、共和政ローマ後期の政務官で、学者としても知られる人物である。生年は紀元前98年ごろ、没年は紀元前45年とされる。生年は法務官に就いた年と、その官職に必要な最低年齢から導かれたもので、エトルリアの生まれともいわれる。フィグルスという添え名は「陶工」を意味し、星や惑星の動きを陶工のろくろにたとえて示したことに由来するという伝承がある。若いころはウァロの弟子だったかもしれず、ギリシアで学びを終え、紀元前78年にはロドスでストア派の哲学者ポセイドニオスに師事したとされる。ラテン世界で最初の新ピタゴラス主義者ともいわれ、ある説では紀元前70年ごろ、カエサルの野心に反対する共和主義者を集めたピタゴラス主義の結社をローマに設けたとされるが、この説は根拠の読み方への批判が強く、いまも議論がある。

政治家としては、紀元前63年までに元老院に入った。この年、キケロと親交を結び、カティリナの陰謀の際には証言の記録を助けてキケロに力を貸した。同じ年に生まれたオクタウィアヌスについては、誕生の日にのちの権力を予言したと伝えられる。紀元前60年にアエディリスだったかもしれないが、紀元前59年にはキケロが彼を護民官にあたる立場として語っている。紀元前58年には法務官となり、紀元前52年から51年には、クイントゥス・ミヌキウス・テルムスのもとでアシア属州の副官を務め、紀元前51年7月に属州を離れた。キケロがキリキアへ赴く途中、エフェソスで彼に会ったとされる。

学問では、同時代人のあいだでウァロに次ぐ名声を得た。その著作は当時から難解とされ、ストア派の要素とピタゴラス主義を合わせた秘教的な傾向が理由かもしれないという。ヒエロニムスは彼を「ピタゴラス主義者にして魔道士」と呼び、中世からルネサンスにかけては魔法使い、占い師、オカルティストとして描かれた。「文法の論評」は言語や文法、好古趣味の覚え書きを集めたもので、少なくとも29冊の本に引用されている。言葉の意味は人間が作ったのではなく自然に存在するとみなし、「兄弟」を意味する語の語源を別の言葉に求めるなど、語源の説明も試みた。ほかに天球に関する本が2冊あり、うち1冊はエジプトの占星術を扱ったことがうかがえる。占星術ではエジプト由来のデカンを認め、惑星の宿りに関する理論も組み立てたとされる。神々の祭儀を述べた「神について」、臓卜を扱う「内臓について」、「夢について」などの占いや宗教に関する論考もあったが、その著作は他の作者の引用にあるわずかな断片としてしか残っていない。

紀元前49年にカエサルがルビコン川を渡って内戦が始まると、ニギディウスは元老院の保守的な共和主義者の側、つまりポンペイウス側についた。ルカヌスの叙事詩には、彼が不気味な予言を語る場面があり、この描写は一部が占星術の書に基づいている。カプアにしばらく身を寄せたのち行方が分からなくなり、紀元前48年のファルサロスの戦場にいたかどうかは確かでない。追放の身のまま、紀元前46年8月の書簡でキケロはカエサルの周辺とカエサル本人に取りなすと約束したが、恩赦は得られなかった。ウァロがカエサルに厚遇されたのとは対照的である。

ニギディウスは紀元前45年、追放中に没した。ヒエロニムスの年代記は53歳での死と記す。キケロは彼を友人の一人に数え、自らが訳した『ティマイオス』に登場させている。

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