伝記
アレクサンドロスは、紀元前35年ごろに生まれ、紀元前7年ごろに没したユダヤ王ヘロデ大王の息子である。ヘロデの長子で、母はハスモン家の王女マリアムネであった。ヘロデ朝の中でもハスモン家の血を引く系統に属し、「王の子」と呼ばれた。
母方の血筋によってハスモン家の王位継承者と目されていた彼は、紀元前23年に教育のためローマへ送られ、アシニウス・ポッリオの家で暮らした。紀元前17年ごろ、ヘロデ自身がローマまで迎えに行き、同じく滞在していた弟アリストブロスとともにエルサレムへ連れ帰った。その後まもなく、カッパドキア王アルケラオスの娘グラフィラを妻に迎えた。グラフィラとの間には、ティグラネスとアレクサンドロスという二人の息子と、名の伝わらない娘の三人の子が生まれた。
容姿が美しく率直な人柄だったため、民衆に慕われた。民衆は半ばユダヤ人であるヘロデよりも、マカバイ家(ハスモン家)の者が王位に就くことを望んでいたのである。一方で、虚栄心と復讐心の強さも指摘され、そのためヘロデを支持する人々からは極めて不人気で、彼が王になれば報復されるのではないかと恐れられた。ただし、この評を伝えるヨセフスはローマの読者を意識しており、大反乱の後にユダヤを貶めようとして批判したにすぎないのではないか、という見方もある。
ヘロデの妹サロメは、アレクサンドロスと弟アリストブロスの危険を繰り返し王に訴えた。王は、処刑された母マリアムネの復讐を息子たちが考えているのではないかと疑い、息子たちが父へ公然と示した反感もあって、サロメらの中傷に耳を貸すようになった。ヘロデは別の妻の長子アンティパトロスを再び重んじてアレクサンドロスを辱めようとしたが、それは裏目に出た。アンティパトロスの陰謀とアレクサンドロスのあからさまな敵意によって父子の溝は深まり、紀元前12年、ヘロデはついに息子たちをアウグストゥスの前で告発するに至った。いったんは和解が成ったものの、それは長くは続かなかった。紀元前10年ごろ、拷問を受けた証人が父の殺害計画を語ったため、アレクサンドロスは投獄された。父への恨みを記した手紙も傍受されて提示された。舅のアルケラオスが関係の改善に努めたが無駄に終わり、和解はまたも短命で、アンティパトロスとサロメの策動により、紀元前8年ごろ、アレクサンドロスはアリストブロスとともに再び監禁された。これは、西方と東方をつなぐ要地での王朝内の争いであり、ローマ帝国各地に不安定さが噴き出していた時代の出来事であった。
ヘロデはアウグストゥスに大逆罪で正式に訴えた。アウグストゥスは事件をヘロデ自身の手に委ね、最終判断を下させた。アレクサンドロスの友人たちが王に嘆願して刑の執行を止めようとしたところ、ヘロデに長く忠実に仕えた老臣テロが、王の企てる司法上の大罪を公然と諫めたが、その結果テロは殺され、アレクサンドロスの支持者として告発された三百人も命を落とした。刑はただちに執行され、紀元前7年ごろ、サマリアのセバステで、兄弟は絞殺されて世を去った。そこは三十年前に母マリアムネの婚礼が行われた場所であった。
同じ年に亡くなった人物
- 召西奴 (紀元前6年没)
- アリストブロス4世 (紀元前6)
- 金蛙王 (紀元前 6年)
- ハリカルナッソスのディオニュシオス (紀元前 6年)
- 劉向 (紀元前6年没)
同じ地域に関係する人物
- ヒエロニムス (420年没)
- シモン (ハスモン朝) (紀元前135年没)
- ダマスコのイオアン (749年没)
- アモス (紀元前739)
- アリストブロス4世 (紀元前6)