伝記
ルドルフ1世は、1274年10月4日にバーゼルで生まれた上バイエルン公兼ライン宮中伯で、ヴィッテルスバッハ家の一員である。父は上バイエルン公兼ライン宮中伯ルートヴィヒ2世、母は父の3番目の妻で、ローマ王ルドルフ1世の娘マティルデである。後に神聖ローマ皇帝に選ばれるルートヴィヒ4世の兄にあたる。
1294年2月に父が亡くなると、生き残った子のうち最年長のルドルフが上バイエルン公とライン宮中伯を継いだ(バイエルンは弟のルートヴィヒ4世と共に相続した)。同じ年の9月1日、ニュルンベルクでローマ王アドルフの娘メヒティルトと結婚した。しかし1298年、アドルフは廃位が宣言され、ハプスブルク家のオーストリア公アルブレヒトが擁立された。ゲルハイムの戦いでルドルフは、母方の叔父であるアルブレヒトと戦う舅アドルフを助けたが、アルブレヒトが勝ち、アドルフは戦死した。アルブレヒトが7月27日に選ばれると、ルドルフはハプスブルク派に加わったが、新王の強い王朝政策でヴィッテルスバッハ家の争いが再燃した。1301年、アルブレヒト1世は野心家の弟ルートヴィヒ4世を共同君主として受け入れるようルドルフに圧力をかけ、ハイデルベルクの居城を包囲して、残る抵抗を折った。
1308年にアルブレヒト1世が暗殺されると、ルドルフとルートヴィヒはともに後継をねらった。しかしマインツ大司教ペーター・フォン・アスペルトらの諸侯が、ルクセンブルク伯ハインリヒ(ハインリヒ7世)の擁立を図り、11月27日の選挙でルドルフはハインリヒに投票した。1310年には新王に従ってイタリアにも同行した。ところがバイエルン公シュテファン1世が亡くなって、ヴィッテルスバッハ家の領地の分割と選帝侯の地位をめぐる新たな争いがルドルフとルートヴィヒ4世のあいだに起き、内戦になったため、イタリアでの従軍をやめなければならなかった。
1313年6月21日にミュンヘンで兄弟は和睦し、ルドルフはライン宮中伯領を保った。同年8月24日にハインリヒ7世が亡くなると、ルートヴィヒは11月9日のガンメルスドルフの戦いで、ハプスブルク家のライバルであるフリードリヒ美王を破り、1314年10月20日にフランクフルトでローマ王に選ばれた。ルドルフはこれに反対し、従弟のオーストリア公フリードリヒ3世に投票して、対立王に選んだ。その後の王位争いで、ルドルフは弟にバイエルンでもプファルツでも攻められて守勢に回り、1317年、ハプスブルク家との争いが終わるまで支配をルートヴィヒに譲ることに同意して退いた。ルネサンス期の歴史家ヨハネス・アヴェンティヌスによれば、ルドルフはイングランドに渡り、2年後の1319年8月12日にそこで没したとされる。「吃音公」の呼び名は、有能な弟との必死の戦いをいくつも重ねたことから、後に与えられたという。
ライン宮中伯は長男アドルフが継いだが、傀儡にすぎず、実権はルートヴィヒ4世に握られていた。1329年に和睦が成り、次男のルドルフ2世らがライン宮中伯を継ぐことが許された。以後ヴィッテルスバッハ家は、ルドルフ1世の子孫がプファルツ系、ルートヴィヒ4世の子孫がバイエルン系として続いた。1400年にローマ王に選ばれたループレヒトは曾孫にあたる。
同じ年に亡くなった人物
- 管道昇 (1319年没)
- ヴァルデマール (ブランデンブルク辺境伯) (1319年)
- インゲボリ・マグヌスドッテル・アヴ・スヴェーリエ (1319年没)
- フアン・デ・カスティーリャ (バレンシア・デ・カンポス領主) (1319年)
- エーリク6世 (デンマーク王) (1319年没)
同じ地域に関係する人物
- テネシー・セレステ・クラフリン (1923年没)
- ウィリアム・カービー (昆虫学者) (1850年没)
- ジンド・カウル (1863年没)
- アゼルヴリス (616年没)
- チャールズ・ヴェイン (1720年没)