伝記
アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリは、1900年6月29日、フランス内陸部のリヨンで、没落した貴族の家に生まれた小説家・飛行士である。読者からは「サンテックス」の愛称で親しまれる。3歳9か月のとき、保険監督官だった父ジャンが脳溢血で亡くなり、一家は母方の祖父の地中海に近い邸宅に、続いて母マリーの大叔母の邸宅へと移った。家系は「11世紀にまで遡る名門」と語られることが多いが、実際には確認できないとされ、アントワーヌ自身は爵位を持っていなかった。イエズス会の学院を経て、スイスのフリブールの学院で文学に励んだ。少年のころから飛行機と文学が好きだったが、勉強はとても苦手で、受験資格を得る試験の合格席次は後ろから数えたほうが早かった。パリに出て海軍兵学校を目指したが、入試に失敗した。
志願して兵役につき、陸軍飛行連隊に所属して、異例の経歴で軍の操縦士となった。退役後は自動車販売員などをしたのち、民間の郵便航空業界に入り、定期郵便飛行に携わった。欧州と南米を結ぶ航路の開拓にも関わっている。1926年、26歳で作家として本格的にデビューし、寡作ながら、自分のパイロットとしての体験に基づく作品を発表した。1929年のデビュー作『南方郵便機』は、男女の恋愛を描いた唯一の作品である。1931年の『夜間飛行』と1939年の『人間の土地』はベストセラーとなり、『人間の土地』でアカデミー・フランセーズ賞を受けた。元パイロットの人気作家として名が売れたが、仲間のパイロットの間では反感も強かったという。1935年にはフランス~ベトナム間の最短時間飛行の記録に挑戦して、機体のトラブルでサハラ砂漠に不時着し、一時は絶望視されながら3日後に徒歩でカイロに生還した。この体験は、のちの『星の王子さま』に反映されている。
1939年9月4日、第二次世界大戦で召集され、トゥールーズで飛行教官を務めたが、前線への転属を希望し、周囲の反対を押し切って実現させた。同年11月から偵察隊に配属される。部隊は多大の損害を受けてアルジェリアへ後退し、ヴィシー政権がドイツと講和した。動員解除でフランス本土に戻ったのち、アメリカへ亡命し、1940年12月31日にニューヨークに着いた。1942年の『戦う操縦士』は、ヒトラーの『我が闘争』への「民主主義の側からの返答」として高く評価され、アメリカで英訳が先に出てベストセラーになった。1943年4月にはニューヨークの出版社から、自ら挿絵を描いた『星の王子さま』が英語版と原文で出版された。フランス本国での刊行は没後の1945年11月である。
亡命先から自由フランス空軍に志願し、1943年6月に原隊の偵察飛行隊に着任したが、着陸失敗の事故で一度は飛行禁止処分を受けた。必死の尽力で復帰し、1944年5月に部隊へ戻った。7月31日、グルノーブル、シャンベリ、アヌシー方面の写真偵察のため、コルシカ島の飛行場から単機で出撃して、帰還しなかった。1998年9月、マルセイユ沖でトロール船が、サン=テグジュペリと妻コンスエロの名が刻まれた銀製の腕輪を見つけた。2000年に近くの海域で見つかった残骸が乗機と確認され、2003年に引き揚げられた機体の部品の製造番号から戦死が確定したが、遺体は見つかっていない。2008年には、ドイツ空軍の元操縦士が、その日に双発機を撃墜したと証言した。しかし機体に弾痕は確認できず、事故や自殺の可能性も指摘されており、最期は今も謎が残る。
同じ年に亡くなった人物
- エセル・リナ・ホワイト (1944年没)
- ウルリヒ・フォン・ハッセル (1944年没)
- Vera Obolenskaya (1944年没)
- ジャン・ジロドゥ (1944年没)
- グレン・ミラー (1944年没)
同じ地域に関係する人物
- モーリス・ブロンデル (1949年没)
- ニーナ・シモン (2003年没)
- パルラディ (カファロフ) (1878年没)
- ジャン・クロウド・イッゾ (2000年没)
- ジャンヌ・カルマン (1997年没)