伝記
ギヤースッディーン・トゥグルクは、ガーズィー・マリクとも呼ばれ、1325年2月に没した北インドのデリー・スルターン朝の君主である。1320年から1325年まで在位し、トゥグルク朝の創始者となった。トゥグルクは本人の名で、王朝の名ではない。出自については資料ごとに細部が異なる。中央アジアのモンゴル系部族カラウナスに属したとも、トルコ人とモンゴル人の混血だったともいわれ、父はバルバンに仕え、母はパンジャーブのヒンドゥー教徒のジャート族だったとする記録もある。下級の身分の生まれで、廷臣アミール・フスローの書いた『トゥグルク・ナーマ』は、本人が若いころに自らを取るに足りない男と語ったと伝える。商人のもとで馬や牛の世話をする下働きから、ハルジー朝に仕えるようになったともいう。
ハルジー朝に仕えてからは、デリーで職を探したのち、ジャラールッディーン・ハルジーの近衛兵となった。1290年代初めのランタンボール攻めで初めて頭角を現したとされる。ジャラールッディーンが甥のアラーウッディーン・ハルジーに殺されたあと、しばらく埋もれたが、重く用いられたのはアラーウッディーンの治世である。アラーウッディーンの弟ウルグ・ハーンの側近として仕え、1305年のアムロハの戦いでは、モンゴル軍を破ったハルジー軍の将マリク・ナーイクの有力な部下の一人だった。1306年のモンゴルの侵入では先鋒を率いて撃退した。アラーウッディーンはムルターン、続いてディーパルプルの総督に任じた。いずれも北西の辺境で、モンゴル軍の侵入路を含む地域であり、軍はおもにディーパルプルで集めたジャート族の戦士からなった。モンゴル軍に勝った回数は、フスローによれば18回、バラニーによれば20回、イブン・バットゥータはムルターンの大モスクの碑文にある29回の勝利を記している。
1316年にアラーウッディーンが没すると、マリク・カーフールが一時政権を握り、のちに長男のクトゥブッディーン・ムバーラク・シャーが実権を握った。1320年7月、ムバーラク・シャーが将軍ホスロー・ハーンの陰謀で殺され、ホスロー・ハーンがデリーの支配者となった。ガーズィー・マリクはこれを承認せず、辺境を離れてホスロー・ハーンを倒し、デリーを制圧した。ギヤースッディーン・トゥグルクを名乗って即位し、デリー・スルターン朝の3番目の王朝を開いた。即位した当時はかなりの高齢だったと考えられている。
治世では、デリーの南郊に巨大な城塞都市トゥグルカバードを築き、城塞や用水路もつくらせた。1323年には息子のウルグ・ハーンをデカンと南インドへ向かわせ、カーカティーヤ朝とパーンディヤ朝を滅ぼして、領土を広げた。1324年にはベンガルに遠征して、離反していた地方を帰順させた。その帰途、ネパールのタライ地方から北ビハールを支配するティルフット王国が攻撃してきたが、逆に滅ぼした。1325年にデリーへ帰還した際、息子ウルグ・ハーンが父の勝利を祝うために建てた建物が倒れ、ギヤースッディーンは世を去った。イブン・バットゥータは、この死は陰謀の結果だったと主張した。跡は長男のウルグ・ハーンがムハンマド・ビン・トゥグルクとして継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- 忠宣王 (1325年没)
- アミール・ホスロー (1325年没)
- Memmo di Filippuccio (1325年)
- ニザームッディーン・アウリヤー (1325年没)
- エーバーハルト1世 (1325年)
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