伝記
忠宣王は、1275年10月20日に生まれた高麗の第26代の王である。名は璋で、モンゴル名を益知礼普花(イジリブカ)という。父は第25代の忠烈王、母は元のクビライの娘である荘穆王后で、その長男として生まれ、元の宮廷で育った。母方の従兄に元の第2代皇帝テムルがいる。高麗の王家は、祖父にあたる元宗がクビライに皇女との縁組を求めたことからモンゴルと結ばれており、忠宣王は初めてモンゴル人の血を引く高麗王となった。
1291年に世子に冊封された。1277年とする説もあり、翌1278年には元に渡ってモンゴル名を授かったとされる。最初の妃は高麗王族の静妃王氏で、1287年に貢女として元へ送られる予定だったが、忠宣王が母に訴えて中止となり、1289年に結婚した。モンゴル出身とされる懿妃也速真も、のちの公主より前に迎えていた。1295年8月には父の代行をつとめたあと元へ戻り、1296年11月、クビライの曾孫娘にあたる元の皇族、薊国大長公主宝塔実憐と結婚した。1297年に母が亡くなると、殺害を疑う声が起こって激しい粛清が続いた。父の忠烈王は元に退位を願い出て、1298年に忠宣王が即位した。しかし、モンゴル出身の公主の一派と、寵愛を受けた趙妃を中心とする高麗側との間で陰謀が激しくなった。公主が趙妃を妬み、呪詛をしていると訴える事件が起こると、まもなく王位を父に返した。
テムルの死後に皇位をめぐる争いが起こると、忠宣王は従兄にあたるアユルバルワダとカイシャンの兄弟と、元にいたころから親しかったため、二人を支えた。1307年にはカイシャンを皇帝の座に就け、1307年か翌1308年に、その功をたたえて高麗王とは別に瀋陽王の称号を授けられた。1308年に父が亡くなり、再び高麗王の座に就いた。宮廷政治の改革に努め、塩の専売制である権塩法を実施した。ただ、書や絵に長じ、政治よりそちらに向いていたとされる。開京よりも元の都の大都での暮らしを好み、できるかぎり元に滞在した。1310年には元での称号が瀋王に改められた。この年、長男の広陵君王鑑は王位継承をめぐって誤解が生じ、死刑となった。1311年には、アユルバルワダ(仁宗)の即位を支えた。
1313年に王位を退いて、次男の忠粛王に譲った。1316年には瀋王の位を王暠に譲っている。1320年、仁宗の死後に即位した新しい皇帝によって吐蕃(チベット)に流されたが、3年後に泰定帝の赦免を受けて戻ったとされる。1325年、大都で亡くなった。
唯一の王女の寿春翁主は、医官の許悰に嫁いだ。三男の徳興君王譓は1314年に生まれ、幼少期に出家した。元に派遣されることがしばしばあり、元の指示で高麗に攻め込んで、甥の恭愍王から政権を奪おうとしたが失敗し、島流しとなって配流先で亡くなった。忠宣王を主人公にした作品に、2017年にMBCで放送されたテレビドラマ『王は愛する』がある。
同じ年に亡くなった人物
- ニザームッディーン・アウリヤー (1325年没)
- ギヤースッディーン・トゥグルク (1325年没)
- Memmo di Filippuccio (1325年)
- ユーリー3世 (モスクワ大公) (1325年没)
- イスマーイール1世 (ナスル朝) (1325年没)
同じ地域に関係する人物
- 梁漱溟 (1988年没)
- 毛沢東 (1976年没)
- 万暦帝 (1620年没)
- Kevin Smith (2002年没)
- 文天祥 (1283年没)