伝記
アリギバは、1320年ごろに生まれ、1328年に没した、モンゴル帝国の第11代カアンで、元の皇帝としては第7代とされる人物である。漢字では阿里吉八と記されるが、これはチベット語の名がモンゴル語風に訛ったものとされる。ラキパクやラジバグと綴られることもある。治世の元号をとって天順帝とも呼ばれる。
傍系からカアンとなった泰定帝イェスン・テムルの長男で、弟にパドマギャルポ、ソセ、ヨンダン・ジャンボらがいる。母のバブカンは、長くカアンの后妃を出してきた名門コンギラト氏の出身である。泰定元年3月20日、すなわち1324年4月14日に、5歳で皇太子に立てられた。それから数日のうちに、父イェスン・テムルは次男のパドマギャルポを晋王に任じ、甥のバラシリをオルドス高原のチャガン・ノールへ出向かせた。これは、クビライの時代に皇太子チンキム、安西王マンガラ、北平王ノムガンがそれぞれ地方を治めた体制への回帰を目指したものではないかと推測されている。
1328年8月、泰定帝が病のため上都で崩じた。父の寵臣で中書左丞相のダウラト・シャーによってアリギバはカアンに擁立され、9月に上都で即位した。ところがイェスン・テムルの急死は、武宗カイシャンを支持する軍閥たちの決起を促した。8月、大都に駐留していたキプチャク親衛軍の司令官エル・テムルが反乱を起こし、大都の政府機関を占拠して、武宗の遺児の擁立を呼びかけた。アリギバの即位と同じ9月には、江陵にいた武宗の次男、懐王トク・テムルが大都に迎え入れられ、アリギバに対抗してカアンを称した。上都側は大都へ侵攻したが、迎え撃ったエル・テムルの軍に敗れて潰走した。上都軍の大半は長城の前線にいたため、翌日には上都の朝廷は降伏を余儀なくされたともいう。
10月には、内モンゴル東部を領する斉王オルク・テムルが大都側について上都を囲み、アリギバとダウラト・シャーは孤立した。ダウラト・シャーら上都側の首脳は大都軍に投降し、のちに処刑された。アリギバも混乱のなかで没したが、どのような最期を遂げたかは分かっていない。姿を消して、殺されたのだろうともいわれる。元の皇帝のなかで最も短い在位であった。この一連のカアン位をめぐる争いは、トク・テムルの立てた元号から、天暦の内乱と呼ばれる。
同じ年に亡くなった人物
- 久明親王 (1328年没)
- イェスン・テムル (1328年没)
- イサベル・デ・カスティーリャ (1283-1328) (1328年没)
- クレマンス・ド・オングリー (1328年没)
- フェリー4世 (ロレーヌ公) (1328年没)