伝記
フェリー4世は、ロレーヌ公として知られる中世の君主で、「戦闘公」と呼ばれた人物である。一二八二年四月十五日にゴンドルヴィルで生まれた。父はロレーヌ公ティボー2世、母はイザベル・ド・ルミニーで、フェリーは父の跡を継ぐ息子であった。
一三〇四年、オーストリア公アルブレヒト1世の娘エリーザベト(一二八五〜一三五二年)と結婚した。アルブレヒト1世はドイツ王でもあった人物である。この結婚によって、フェリーはのちに美王と呼ばれるフリードリヒ3世の義理の弟となった。一三一二年にロレーヌ公となった。
一三一四年十月十八日、フランクフルトの議会で、神聖ローマ帝国の選帝侯たちは、皇帝ハインリヒ7世の後継者を決めることができなかった。ハプスブルク家のオーストリア公フリードリヒ3世と、ヴィッテルスバッハ家のルートヴィヒ4世の、どちらも選べなかったのである。フェリーは義兄のフリードリヒ3世を支持した一人であった。一三二二年九月二十八日のミュールドルフの戦いでは、フェリーとフリードリヒ3世がともに捕虜となった。これはフランス王シャルル4世にとって、ロレーヌとフランスの結びつきを強める機会となった。シャルル4世は、ロレーヌが帝国の問題に干渉しないという約束と引き換えに、すぐにフェリーの釈放を取りつけた。
一三二四年、フェリーはイングランド王エドワード2世の領土に対するアキテーヌ遠征に加わった。シャルル4世がエドワード2世の領土に不法に要塞を築いたうえ、ヒュー・ル・ディスペンサーとその息子の若いヒューが、シャルル4世の妹でエドワード2世の王妃であるイザベラを投獄したため、シャルル4世は叔父のヴァロワ伯シャルルをイングランドの領土へ向かわせていたのである。フェリーは一三二五年と一三二六年のメス戦争にも参加した。
一三二八年、フランス王フィリップ6世の軍に加わり、カッセルの戦いで戦死した。戦死したのは八月二十三日とされる。フェリーとエリーザベトの子には、のちにロレーヌ公を継いだラウル(一三二〇〜一三四六年)がいた。娘のマルグリットは、オブリーヴ領主ジャン・ド・シャロン、フライブルク伯コンラート、ラッポルトシュタイン領主ウルリヒと、三度結婚した。ほかに四人の子が、幼いうちに亡くなっている。
同じ年に亡くなった人物
- シャルル4世 (フランス王) (1328年没)
- クレマンス・ド・オングリー (1328年没)
- イェスン・テムル (1328年没)
- アリギバ (1328年没)
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- フィリップ=アントワーヌ・メルラン・ド・ドゥーエー (1838年没)
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- ジャック・ドリル (1813年没)
- クロード・レヴィ=ストロース (2009年没)