伝記
シャルル4世は、カペー朝最後のフランス王であり、ナバラ王(カルロス1世)を兼ねた人物である。一二九四年六月十八日に生まれ、一三二八年二月一日に没した。在位は一三二二年から一三二八年で、父フィリップ4世と同じく、フランスでは端麗王、ナバラでは禿頭王と呼ばれた。父とナバラ女王フアナ1世の三男で、兄にルイ10世とフィリップ5世がいる。フランス語版の記事によれば、クレイユ城で生まれ、ヴァンセンヌで世を去った。
幼少期についてはほとんど分かっておらず、王位を継ぐ立場にはなかった。一三〇七年に父がビゴール伯領を買い取り、これを領地として与えた。同じ年ごろに、ブルゴーニュ伯オトン4世の娘ブランシュと結婚したが、ブランシュは一三一四年の初め、義姉マルグリットとともに姦通の罪で断罪された。いわゆるネールの塔事件で、ブランシュはガイヤール城に幽閉された。父の治世には政務に関わることが少なく、死の間際になってマルシュ伯領を与えられた。
兄ルイ10世が一三一六年に没すると、後継をめぐる危機が生じた。王妃が産んだ男児は数日で亡くなり、次兄フィリップ5世が王位に就いた。シャルルは叔父ヴァロワ伯シャルルに近く、一時は兄に反発して、ルイ10世の娘ジャンヌの権利を支持する側に立ち、兄の戴冠式を途中で抜け出す騒ぎも起こした。のちに兄から、王国の重臣たちと並ぶ資格を与えられて懐柔されたという。一三二二年に兄フィリップ5世が男子を残さずに没すると、フランスとナバラの王位を継承した。同年にブランシュとは離婚し、ボヘミア王ヨハンの妹マリー・ド・リュクサンブールと再婚したが、マリーは一三二四年に出産のあと母子ともに亡くなった。翌年に従妹のジャンヌ・デヴルーと結婚した。
即位後は、フランドルの農民蜂起に直面し、一三二四年には神聖ローマ皇帝への選出をめざしたが、失敗した。同年、アキテーヌをめぐって、妹イザベラの夫であるイングランド王エドワード2世と衝突した。エドワード2世が大陸領の臣従礼を拒むと、シャルルは叔父の助けを得てギュイエンヌ公領を征服し、サン・サルドの戦争と呼ばれる短い争いののち、翌年にフランス優位の和睦を結んだ。エドワード2世は臣従礼を行い、罰金を払うことに応じ、アキテーヌは一部の領土を削られて返された。
外交では、一三二三年にヴァロワ伯を使節として教皇ヨハネス22世のもとへ送り、フィリップ5世が一三二〇年に中止した十字軍の計画の再開をはかったが、教皇がシャルル4世を信用せず、王もイングランドとの争いに追われて交渉は行き詰まった。一三二六年には反乱に揺れる東ローマ帝国への介入を試み、皇帝アンドロニコス2世が東西教会の合同を持ちかけたが、孫のアンドロニコス3世の反乱が本格化して頓挫した。またボヘミア王ヨハンの王子ヴェンツェルをパリの宮廷で養育し、彼はのちに王にちなんでシャルルと改名して、一三四六年にボヘミア王、翌年に神聖ローマ皇帝カール4世となった。
一三二八年に、妹イザベラの子エドワード3世との間で改めて和睦を結んだが、同年に世を去った。王子は夭折し、残ったのは王女ばかりであったため、カペー朝は断絶した。王位は従弟のフィリップ6世に移ってヴァロワ朝が開かれ、ナバラは姪ジャンヌに渡った。この継承をめぐる争いが、十年足らずのちに百年戦争を引き起こすことになった。
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