伝記
忠恵王は、1315年2月22日に生まれた高麗の第28代の王である。名は禎、モンゴル名はブダシリといい、父は忠粛王、母は明徳太后洪氏である。1328年、世子として人質にあたる禿魯花となり、元の都の燕京で宿衛についた。そのころ権力をふるっていた中書右丞相のエル・テムルと親しくなり、その支えもあって、1330年に忠粛王が位を譲ったことで高麗王に立てられた。エル・テムルの仲介で元の皇族の徳寧公主を妃に迎えており、帰国後は、高麗を元の直轄領に組み入れようという元朝内部の議論に強く嘆願して、これをとどめている。しかし世子のころからモンゴルの王族たちと交わって歓楽にふける癖がついていたため、政治を顧みず、狩りや遊びに明け暮れた。
1332年、大青島に流されたトゴン・テムルの身柄をめぐり、遼陽行省と高麗が謀反をたくらんでいるという讒言が伝えられた。元の文宗はその責任を問うて忠恵王を廃し、忠粛王を復位させた。忠恵王は再び燕京に呼び寄せられたが、エル・テムルの一族と近い関係を保っていたため、政治的に対立する太保バヤンに嫌われた。エル・テムルが死に、その一族が粛清されると後ろ盾を失い、1336年には宿衛の務めを怠ったという理由で強制的に帰国させられた。
3年後の1339年に忠粛王が亡くなり、遺言にしたがって忠恵王が王位を継ぐことになった。ところが、瀋王の王暠を高麗王に立てたいバヤンの反対にあい、元から正式な冊封を受けられなかった。焦った忠恵王は、金銀や王室の宝物を元の有力者に贈り、征東行省を通じて復位を訴えるなど、支持集めに追われた。このころ、忠粛王の后妃で継母にあたる慶華公主を犯してもいる。この事件は荒淫な性情の表れとして歴史家に非難されてきたが、収継婚の形を借りて自分が忠粛王の継承者であることを確かにしようとしたのではないか、とする推測もある。同年8月には、慶華公主と王暠にそそのかされた政丞の曹頔が開京の王宮を襲ったが、忠恵王の親衛軍に押さえられた。11月、元は高麗王の印を伝えて復位を認めたように見えたが、わずか10日後に忠恵王を燕京へ押送し、刑部に収監した。翌年3月、トクトの主導でバヤンが失脚すると情勢は一変し、復位が認められた。
復位したのちも、立場は安定しなかった。同母弟の江陵大君王祺が元の宮廷に入り、高麗人の貢女だった奇氏が次皇后に立てられたからである。奇氏はエル・テムルの娘のダナシリ皇后から圧迫を受けており、エル・テムルと親しかった忠恵王にもよい感情を持っていなかった。忠恵王は節制のない私生活を改めず、財政改革の名目で王個人の内帑庫を満たしたり、新宮の建設のために取り立てを強めたりして、失政を重ねた。「嬖幸」「悪小輩」と呼ばれた側近が要職を占めて横暴をふるい、既存の支配層の評判も落ちた。1343年8月、奇皇后の兄をはじめとする親元派は、忠恵王の「貪淫不道」を指摘し、高麗に新しい行省を置いて直轄領にするよう元の中書省に求めた。同年11月、元から使臣が相次いで送られ、詔書の頒布を口実に忠恵王は征東行省へ誘い出されて逮捕された。
順帝の命で広東の掲陽県へ流される途中、忠恵王は湖広の岳陽県で病死した。1344年1月30日のことで、世話をする者もなく、包みまで自分で持たねばならなかったと伝えられる。遺体は高麗へ送り返され、開京近郊の開豊区域に葬られた。バヤンはこの王をモンゴル語で暴れん坊を意味する「撥皮」と呼んで軽蔑していた。徳寧公主との間の子の忠穆王と、禧妃尹氏との間の子の忠定王は、のちにそれぞれ高麗の王位についた。
同じ年に亡くなった人物
- ゲルソニデス (1344年没)
- レオポルト2世・フォン・ハプスブルク (1344年没)
- Abu Hayyan al-Gharnati (1344年)
- Shihab ad-Din Ahmad (1344年没)
- アンリ4世 (バル伯) (1344年没)