HISTORICAL PERSON · 1355年没

イネス・デ・カストロ

ポルトガル王太子ペドロの愛妾。結婚を認められず処刑されたが、即位したペドロ1世に王妃として棺を戴冠させられた悲恋で知られる。

生涯
1355年没
死亡地
ポルトガル共和国(コインブラ県 / コインブラ)
出生地
スペイン王国(コマルカ・ダ・リミア)
出典
世界地図
ポルトガル共和国(コインブラ県)

伝記

イネス・デ・カストロは、1325年に生まれ、1355年1月7日に没した、ポルトガル王ペドロ1世の愛妾であり、のちに王妃とされた女性である。生年は1320年ごろともいわれる。仕えた妃の夫であるポルトガル王太子と恋仲になり、処刑された物語で知られ、芸術作品の題材となった。

イネスはガリシアの貴族と、その愛妾アルドンサのあいだに庶子として生まれた。父はカスティーリャ王族フアン・マヌエルに仕えており、一族はガリシアでも古く名高い家柄に属した。1340年、フアン・マヌエルの娘コンスタンサがポルトガルの王太子ペドロのもとへ嫁ぐとき、イネスは父の縁故で、いとこにあたるコンスタンサの侍女として輿入れに伴われた。ポルトガルの宮廷で、イネスは正妃コンスタンサを差し置いてペドロの寵愛を受けるようになり、ポルトガルとカスティーリャの友好関係に悪影響を及ぼした。イネスの周囲にはカスティーリャからの亡命貴族やイネスの兄弟が、ペドロの友人や相談者として集まったため、ペドロの父アフォンソ4世はイネスを警戒した。父子の関係も悪化していた。

1349年に王太子妃コンスタンサが亡くなると、アフォンソ4世は息子を再婚させようとしたが、ペドロはイネス以外とは結婚しないと拒んだ。コンスタンサの生前から続く二人の仲は公然のものとなり、イネスは4人の子をもうけた。アフォンソは1346年に生まれて夭折し、ベアトリスは1347年生まれ、ジョアンは1349年生まれ、ディニスは1354年生まれであった。1354年ごろには、グアルダの司教の前でひそかに結婚したともいわれるが、それを証明する文書は出せなかったという。王の重臣たちは、イネスが正式に妃となれば、王太子妃が遺した王子フェルナンドがないがしろにされ、イネスの子らが厚遇されると王に進言した。イネスとペドロは別れていなかったのである。打つ手がないと考えたアフォンソ4世は、3人の貴族にイネスの処刑を命じた。

イネスはコインブラで捕らえられ、王の前に引き出された。3人の子を抱き、「この子たちは陛下の孫ですから、どうぞ命だけはお助けください」と哀願したという。王は一度は処刑を思いとどまったが、貴族たちはイネスを生かしておく危険を訴え、王は「お前たちの好きなようにせよ」と言ってその場を去った。イネスは1355年に斬首された。この死を聞いたペドロは逆上して父王に反乱を起こしたが、母ベアトリス王妃の取りなしで和解した。ただしイネスへの復讐は禁じられた。

1357年に王位に就いたペドロは、イネスと正式に結婚していたと述べ、彼女は王妃であると宣言した。すでに葬られていた棺を掘り起こさせ、王妃の礼をもって宮廷へ運ばせ、臣下に王妃の手への接吻と忠誠を求めた。殺害に加わった3人の貴族はカスティーリャへ逃げており、ペドロは甥のカスティーリャ王ペドロ1世に逮捕を依頼した。イネスはアルコバッサ修道院に改めて葬られ、大理石の棺は王の棺と向かい合って置かれている。最後の審判のあとに起き上がると、すぐ互いの顔が見られるようにとの王の願いによる。この物語は、ルイス・デ・カモンイスの『ウス・ルジアダス』をはじめとする文芸に残り、オペラやバレエにも、この人物を中心に据えた20を超える作品がある。

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