伝記
アブドゥッラティーフは、ティムール朝の第5代君主(在位1449年〜1450年5月)である。1420年ごろに、第4代君主ウルグ・ベクと、その側室ルカイヤ・ハトゥン・アルラトの三男として生まれた。ティムールの曽孫にあたる。祖父シャー・ルフの宮廷で育てられ、父と同じように学問と一般の教育を受けたことが知られる。ヘラートで育ったため、モンゴルの伝統を父ほどは保たなかったと考える歴史家もいる。バルフの総督を与えられ、父に仕えた。
1447年にシャー・ルフが亡くなり、ウルグ・ベクが即位すると、国内に多くの王位請求者が現れた。アブドゥッラティーフの従兄弟アラー・ウッダウラも請求者の一人で、ガウハル・シャード(シャー・ルフの妃で、アブドゥッラティーフの祖母)の支援を受けて反乱を起こした。このときアブドゥッラティーフはアラー・ウッダウラに捕らえられたが、ウルグ・ベクとアラー・ウッダウラの和平交渉のなかで釈放された。交渉でアラー・ウッダウラに課された他の条件は守られず、ウルグ・ベクは再び戦ってアラー・ウッダウラを破り、マシュハドへ追いやった。この勝利のとき、アブドゥッラティーフは別に軍を率いて、ヘラートを占領した。
しかし、ウルグ・ベクが政治の中心をヘラートではなくサマルカンドに置いたことに不満を抱き、また、サマルカンドの支配の引き継ぎから自分が外されることに怒って、駐屯先のバルフで反乱を起こした。ウルグ・ベクがホラーサーンを取り戻そうと進軍しているあいだのことである。1449年の秋、サマルカンド近くのディマシュクで、父との戦いに勝利した。ウルグ・ベクは降伏を決め、アブドゥッラティーフは、父のメッカ巡礼の願いを許可して命を助けたが、父が出発したあと、助命を撤回して死刑の判決を下し、ペルシア人の奴隷を遣わして殺害させた。この行いから、「父殺し」を意味するパダルクシュのあだ名で呼ばれた。数日後には、兄弟のアブドゥルアズィーズも殺させた。
君主となってからは、スーフィズムの聖者や修行僧を保護した。私生活でも敬虔なムスリムで、父とは違って、イスラームの指導者たちの支持を得た。しかし、将校の多くは彼に従わず、1450年5月9日に、ウルグ・ベクの忠僕に暗殺された。在位は約6か月で、跡は従兄弟のアブドゥッラーが継いだ。妃はシャー・スルタン・アーガーで、息子にアブドゥル・ラッザーク、アフマド、マフムード、ジューキー、ムハンマド・バーキールがおり、娘にカタク・スルタン・ベギムがいた。
同じ年に亡くなった人物
- バジル・バレンタイン (1450年)
- ウィリアム・ド・ラ・ポール (初代サフォーク公) (1450年没)
- ルートヴィヒ1世 (1450年)
- Giovanni d'Alemagna (1450年)
- ハインリヒ16世 (バイエルン公) (1450年没)
同じ地域に関係する人物
- Shams al-Din al-Samarqandi (1310年没)
- ムハンマド・アル=ブハーリー (870年没)
- アブドゥッラー (ティムール朝) (1451年没)
- アダビア・エフェンディエバ (1944年没)
- ジャハーンギール (ティムール朝) (1376年没)