伝記
ジョヴァンニ・マリーア・ヴィスコンティは、1388年9月7日に生まれ、1412年5月16日に没した、第2代のミラノ公である。1402年から1412年まで在位した。13歳か14歳でミラノ公となり、24歳で暗殺された。
ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティと、ベルナボ・ヴィスコンティの娘カテリーナの息子で、のちに跡を継ぐフィリッポ・マリーアの兄にあたる。1388年にアッビアーテグラッソのヴィスコンティ城で生まれた。両親は1380年から結婚していたが、それまでに生まれた子は1人だけで、その子も生後1か月で亡くなっていた。そのため、待ち望まれた跡継ぎの誕生は祝われた。両親は、聖母マリアが子を授けてくれたなら、息子たちの名に、本来は女性の名とされる「マリーア」を加えると誓っており、そこから名がジョヴァンニ・マリーアとなった。アッビアーテグラッソのサンタ・マリーア・ヌオーヴァ教会は、この誕生を祝って建てられた。
1402年に父が急死すると、ジョヴァンニ・マリーアは母カテリーナの摂政のもとで公位に就いた。しかしミラノ公国はまもなく崩れ、傭兵隊長たちの率いる党派が争うなかで、ファチーノ・カーネが頭角を現した。ファチーノは、ジョヴァンニ・マリーアの残忍な性格につけ込んで、摂政である母への疑いを吹き込んだといわれる。長じたジョヴァンニは、側近の讒言に耳を貸して母を幽閉し、自らミラノの支配者となった。カテリーナは1404年にモンツァに幽閉され、まもなく亡くなったが、毒殺されたとも、ペストによるともいわれる。
公となった彼は独善的に振る舞い、ときには傭兵隊長とも対立し、領地では反乱が相次いだ。1408年には、チェゼーナ領主アンドレア・マラテスタの娘アントーニアと結婚したが、子はなかった。人間を生きたまま食べるよう訓練した猟犬で知られたという。1409年5月、まだ戦いのなかにあった町で、飢えた民衆が通りかかった彼に「平和を」と叫ぶと、兵に命じて200人ほどを殺させたと伝えられる。その後は、平和と戦争という言葉を口にすることを、絞首刑を条件に禁じ、聖職者にも、ミサのなかで、平和の代わりに静穏を与えたまえと唱えさせたという。暗殺を恐れて城にこもるようになったが、最大の傭兵隊長ファチーノ・カーネがパヴィアで重い病に伏していたとき、ミラノのサン・ゴッタルド教会の前で、数人の陰謀者に襲われて殺された。
跡を継いだのは4歳下の弟フィリッポ・マリーアで、第3代ミラノ公となった。ファチーノ・カーネは死の間際に、部下たちに、ジョヴァンニ・マリーアの跡継ぎであるフィリッポ・マリーアを支えるよう誓わせ、自分の妻ベアトリーチェ・ディ・テンダが、のちに新公と結婚することも提案した。それは実際にまもなく実現した。
同じ年に亡くなった人物
- ナースィル・ファラジュ (1412年没)
- ファチーノ・カーネ (1412年)
- カトリーヌ・ド・ヴァンドーム (1412年没)
- マルグレーテ1世 (1412年没)
- コンスタンティネ1世 (ジョージア王) (1412年没)
同じ地域に関係する人物
- カルロ3世・ディ・サヴォイア (1553年没)
- シルヴィオ・ピオラ (1996年没)
- グリエルモ9世 (モンフェッラート侯) (1518年没)
- フランソワ (ヴァンドーム伯) (1495年没)
- Giuseppe Cavanna (1976年没)