伝記
マルグレーテ1世は、1353年3月、デンマーク王ヴァルデマー4世と王妃ヘルヴィの娘として、スーボー城で生まれた。生まれたのは城の牢獄で、そこは父王がすでに母を幽閉していた場所だった。ロスキレで洗礼を受け、1359年、六歳のときにスウェーデン・ノルウェー王マグヌスの末子である18歳のホーコン6世と婚約した。この縁組は北欧の勢力争いの一部で、父王にとってはスコーネ地方を取り戻す狙いがあった。スウェーデンの活動家ビルギッタは、教皇への手紙でこれを「子どもたちの人形遊び」と評したという。しかし同年に情勢が変わって婚約は一度反故となり、ヴァルデマー4世はゴットランド島のヴィスビーも攻めて、ハンザ同盟の禁輸措置を招いた。その後に休戦が結ばれ、1363年4月9日、10歳のマルグレーテはコペンハーゲンでホーコン6世と結婚した。のちにオスロ・フィヨルドのアーケシュフース城へ移り、貴族の女性メーレテ・ウルヴスドッテルのもとで育てられたとされる。1370年には息子オーロフが生まれた。
1375年にヴァルデマー4世が急逝すると、男子がなかったため、ノルウェー王妃であるマルグレーテが実権を握るようになった。マルグレーテはデンマーク王国参事会を味方につけ、5歳の息子をオーロフ2世としてデンマーク王に即位させ、自らは摂政となった。1380年にホーコン6世が死ぬと、オーロフはオーラヴ4世としてノルウェー王位も継ぎ、マルグレーテはノルウェーの摂政にも就いて、デンマークとノルウェーの同君連合の実質的な支配者となった。
1387年、オーロフが17歳で急死した。当時の北欧では女性の王位継承は認められていなかったが、デンマークの参事会はマルグレーテを王国全体の後見人に選び、1388年にはノルウェーも同様の称号を認めた。女王の称号こそなかったものの、マルグレーテは実質的な女王として次期国王を選ぶ権限を得た。後継者には、姉インゲボーの娘マーリアの息子で、ポメラニア公国に生まれた又甥のエーリヒを指名し、エーリヒはまずノルウェー王に認められた。
スウェーデンでは、マグヌスが1364年に追放されてノルウェーに亡命し、貴族はメクレンブルク公子アルブレクトを王に選んでいた。最大のライバルとなったこのアルブレクトを、デンマークは1389年の戦いで捕虜とし、マルグレーテは廃位を迫った。1396年、エーリヒはデンマーク王およびスウェーデン王として即位し、北欧3国は実質的に同君連合となった。翌1397年にはマルグレーテの主導でカルマル同盟が結ばれ、3国はスウェーデンが独立する1523年まで同じ王を戴いた。エーリヒは1401年に成年に達したが、マルグレーテは1412年10月28日に死ぬまで、名目を除けばただ一人の統治者であり続けた。
北欧を一つにまとめ、ハンザ同盟に対抗できる力を持たせることを目指した統治者で、賢明で精力的な指導者とされ、「北のセミラミス」の異名をとり、臣下からは「女王にして王」と呼ばれた。一方で、アルブレクトが名づけたともされる「ズボンなし王」の蔑称もあった。ノルウェーやスウェーデンの歴史家には、デンマークを優遇し専制的すぎたと批判する者もいる。教会を抑えて王権を強めたため、同時代の教会の年代記では否定的に描かれた。
同じ年に亡くなった人物
- ナースィル・ファラジュ (1412年没)
- カトリーヌ・ド・ヴァンドーム (1412年没)
- ルイ・ゴンザレス・デ・クラビホ (1412年没)
- オルジェイ・テムル (1412年没)
- ヨハンネス・チコーニア (1412年没)
同じ地域に関係する人物
- ヴィルヘルム・マルシャル (1976年没)
- クリスチャン5世 (デンマーク王) (1699年没)
- フリッツ・ヘーガー (1949年没)
- アドルフ・フリードリヒ・ツー・メクレンブルク (1969年没)
- クリスチャン・A・F・ペーテルス (1880年没)